パシるくらいしか能がなかったからパシった
電車の中、体の冷えを感じながら、以前、人に贈った本のことをぼんやり思い出す。
何かが足りない
それでぼくは楽しくない足りないかけらを
探しに行く
昨日は濡れた。濡れたと言っても色っぽさも何もなければ艶もない。天気がわるかった、そして傘を持っていなかった。
人に傘を借りてお遣いに出かけたものの、借りた傘がバーバリーの高価(と言ってもビニール傘などに比べての話なのだけど)なものだった。
しまった、壊れたときは後日ベネトンの傘で弁償してもいいか、と聞けば良かった。ベネトンの傘なら自宅にあった。お気に入りの、ブルーの傘だ。
ころがりながら
ぼくは歌う
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを探しにね」
雪か雨かわからないものは降っている。風も冷たく強い。ベネトンは冗談でも、壊したら同じものを買って返さねばならない。同じものがまだ売られてるのかどうか、わからない。それ以前に思い出の品、それより大切な人からの贈り物だった可能性が高い、自分でこんな傘を買うような人じゃ・・・とそこまで考えて、頭を使うのが面倒になった。
借りた傘はそうそうに諦め、濡れながら歩いた。しばらく歩いて、店に入り、またしばらく歩き店に入る。そこで買い物を終え、また、歩く。
かんかん照りあれば
涼しい雨も降る
雪でこごえたかと思えば
またぽかぽかのお日和なにしろぼくの体はかけていて
あんまり速くはころがれない
それで立ち止っては
みみずとお話する
お遣いは1時間で終わった。自分では思った以上にかかったのだが、その人(この人が傘を貸してくれた)は「めっちゃ早くない?」と驚いていた。まあ、外の天気を知らないのだから、仕方がない。
黙って立っていたらコートを脱ぐように言われたけど、残念なことに、昨日はそこでタイムオーバー。もう、帰らなければならなかった。
荷物をまとめながら、その人は「パシリをさせたみたいだ」と何度も謝っていた。「キューピーよりピュアセレクトの方が好きだったろ」とか何とか適当なことを、そして、もらったお土産の礼を言い、外に出る。
今度は傘を断った。ベネトンの傘は、また忘れていた。話す機会は失われた(が、ここに書けてよかった。お気に入りの傘なので)。天気は、相変わらずだった。
この花はいい香り
かぶとむしを追いこしたり
かぶとむしに
追いこされたりこんな愉快なことはない
駅までの道のり。途中、国道で無理な斜め横断をした。幹線道路、片側二車線、時刻は夕方、天気、路面は最悪。思い返せば悪い条件しかたない。
死にたいわけではない。早く帰りたかった。そんなことで、死んでたまるか。
どんどん進む
海を渡り「ぼくはかけらを探してる
野越え海越え
ランランラン ロンロンロン
ぼくのかけらを探してる」
トイレに寄ったら電車を一本逃した。そうなることはわかっていたが、もうどうでもよかった。ばからしかったのだ。
ずっと、最初に外に出たときから、トイレを我慢していたのだから。
沼もやぶもものともせず
山に登って
またくだり
とうとうある日のこと
「ぼくのかけらを見つけたぞ
ぼくのかけらを見つけだぞ
ランランラン ロンロンロン
ぼくのかけらを……」「おい待てよ」
とかけらがいった
「調子よく歌うのもいいけれど……ぼくはきみのかけらじゃないからね
誰のかけらでもないからね
ぼくはぼく
もしぼくが
誰かのかけらだったとしても
きみのだなんて思えない」ぼくはがっかりしていった
「そう じゃましてごめん」
それでまたころがっていく
ホームに居合わせた出勤前のキャバ嬢と思われる女性が、電話口に「サンクスで買ったばかりの傘がすぐに壊れた。400円がパーになった」と言っていた。傘の件は杞憂じゃなかったようだ。用心して使わずによかった。
キャバ嬢(たぶん)はあと、自分の恋愛の話と、(おそらく職場にいると思われる)うざい女の恋愛の話をして、「(わたしは)あいつと違うから」みたいなことを言っていた。電車で、仲間と合流していた。ずっとメイクをしていた。
またかけらが見つかった
でも今度のは小さすぎ
こいつは大きすぎ
これは尖りすぎ
これは角ばりすぎ
ぴったりの
かけらを見つけたと
思ったのもつかのまでしっかりはめておかなかったので
落してしまった
きつく
くわえすぎたらこわれてしまった
とにかくどんどんころがっていく
むちゃをしたり
穴に落ちたり
石の壁にぶつかったり
濡れたコートのまま電車に乗る。窓は冷たく結露している。非常に寒く、冷たいコートも脱げない。
そこで思い出した。「ぼくを探しに」を。
3年前の冬、いつも図書館に陣取っていた席の後ろが絵本のコーナーだった。
たまたま手に取った絵本に、自分が、自分の年で、こんなにもはまるとは思わなかった。次の春、その本を買い、人に贈った。
そしてある日のこと
ぼくにぴったり合いそうな
かけらに出会った「やあ」とぼく
「あら」とかけら
「きみは誰かのかけらかな?」
「さあどうかしら」
「でもきみは きみのままいたいのかもしれないね」
「誰かのものになったって あたしはあたしよ」
「でもぼくのものにはなりたくないかもしれないしね」
「さあどうかしら」
「でもぼくにはうまくはまらないかも……」
「やってみたら」「どれ」
「ほら!」はまったぞ
ぴったりだ
やった! ばんざい!
自分はどうしてあの本を贈ろうと思ったのか・・・。
その頃、わたしは自分の言葉を、自分自身をそれほど信頼できていなかった。自分自身の力不足を、思い知った直後だったからだ。
自分の言葉は人に通用しない。今の自分は人に何かを伝えられない。
人には言わなかったけれど、オーバーじゃなく、本当にそう思っていた。だから、人の言葉を借りたかった。
絵本を選んだのも、そういう理由だったと思う。
媒体(メディア)として写真ではなく、絵を選らんだ。きっと、自分には絵が描けないからだ。写真で伝えるなら、自分で写真を撮っていただろう。
ぼくはころがる
もう
すっかりまるくなったから
前よりも
ずっと速くころがる
こんなことは
はじめてだあんまり調子よくころがるので
みみずとお話することも花の香りをかぐことも
ちょうに止まってもらうこともできない
でも楽しい歌なら歌えそう
今なら歌える
「ぼくのかけらを見つけたぞ」
そして、昨日。
また、自分を思い知った。
昨日は金を持っていなかった。その1つ前の散々ぷっりが酷かった。金を使いながら、それとなく事情について話してみたが、話をすべてはわかってもらえない。
だから、昨日は金を持っていかなかったのだ。なければ使わないだろうと。そんなばかなことを考えていた。
金がなければ人はどうするのか? わたしの友達たちは、目の前で、「金のある人」を探し始めた。その日の晩ご飯をどうにか調達するために、だ。
携帯電話を使って、「金のある人」たちについて、あれでもない、これでもない、あれがだめ、これがだめ、と吟味をする。そののち、「金さえもっていればまあいいか」と妥協したようなことを言う。
どこまで冗談で本気なのか知らないが、1人が携帯を開きサイトを表示したとき、違う1人は「同じことを考えていた」と言っていた。
そして「金さえもっていれば」という発言について、自分たちは特殊な例ではない、みんなそんなもんだ、とも言っていた。
ぼくは歌いだす
「ぼぐのがげらをみづげだぞ
ぼぐのがげらをみづげだぞ
ラムラムラム
ロムロムロム
みづげだぞ」あれ?
まるくなったと思ったら
今度はちっとも歌えない
「金さえもっていればまあいいか」には、例外がある。
いや、むしろ、「金さえもっていればまあいいか」で済まされる人間こそが、例外のようだ。
旦那でも、彼氏でも、友達でもない男。
そういった男の価値は「いくら自分に金を使ってくれるのか」で決まるのだ。
その一方で、自分は「友達」なので、「金さえもっていればまあいいか」のルールからは外れることになる。
そもそも、金がないときに済ます安上がりメニューの400円がない、というところから、その「金のある人」探しがはじまったのだ。
自分はそもそも金を期待もされていないし、金をたかられているわけでもない。また、そういうことがあったことも、1度もない。今なくて困っているのは、数百円である。小学生の小遣い(と言っても、最近の小学生はもっともっともらっているだろうが)のようなものがなくて、こうなっているのだ。
「なるほど
つまりそういうわけだったのか」それでぼくはころがるのをやめて
かけらをそっとおろし
一人ゆっくりころがっていく
それほど熱心ではない「金のある人」探しは、早々に終わった。
冗談でも、目の前で行われた出来事は、その日、大人になって、自分の交通費とジュース代くらいしか持たずに家を出た私を、ばかで、ちっさな私の目を覚まさせるには十分だった。
それでも、何かのためにと、クレジットカードは持ち歩いていた。
わたしは歯痛や寝不足を抱えた友人たちをそのままに、そこにいる人たちの所持金ぎりぎりで買い物をするためにと、1人、外に出た。
途中、携帯から「買い物は済ませた、他に買うものはないか」という趣旨の電話をかける。カードが使えるから不足分は自分が出す、ということも話す。
追加された品々は、つまらないものだけど、予算の400円よりは高くついた。もしカードも持っていなかったら、ガキのお遣いすらろくにできないところだった。
買った品を抱え込み、早々に友人の家に戻る。やっぱり傘は使えなかった。
昨日、わたしはパシるくらいしか能がなかったから、パシった。
ころがりながらそっと歌う
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを探しにね」
金を持っていたらよかったのか。財布に400円+αの現金が入っていたら、それですべてがよかったのか?
答えはNoである。そのときは、パシることも出来なかったかもしれない。だが、自分がパシるくらいしか能がないばかだという事実には気づけなかっただろう。
「何度言ってもわかってくれない」「きっと(私の言うことを)何とも思っていない」と、そういった趣旨のことを、傘を貸してくれたその人から、何度言われただろう。
きっと、友人たちの腹は満たせても、それ以上のことはできなかった。それはある意味最悪のシナリオだっただろう。
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを探しにね」
このまま、自分を終わらすつもりはない。ヘキサゴンの歌ではない。私は自分自身を低く見積もったり、他人からそう思われるのだ大嫌いだからだ。
私が探している「足りないかけら」は、ない物ねだりの何かではない。万年五月病で「贅沢病」の患者のように、わたしは「何か」そのものを求めているわけでも、ない。
足りなかったものは、心のどこかで、現状の自分に満足し、現実を妥協していた私にあった。
本を贈った彼女にも、わたしはそんなことが言いたかったのだと思う。そして、自分にも。私はまた、過去への未練を少し断ち切ったことを知る。
「ぼくはかけらを探してる
足りないかけらを探してる
ラッタッタ さあ行くぞ
足りないかけらを探しにね」
(本文の引用はすべて「ぼくを探しに」作:ルヴァスタイン/訳:倉橋由美子、テキストはぼくを探しにによります)



