TOP  >  言葉、屁理屈  >  最高の屁理屈をあなたへ! : 2007年 03
あれ、打ち間違ってる?

打ち間違いだとわかる箇所は、間違っていること・本当のことの両方が伝わっているものだと思います。適宜読み替えて読んでください。間違いに気づかない人は、どうぞそのままお読みください。

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2007年3月22日(木曜日)

本当に伝えたいこと

カテゴリー: - etupirka @ 20時42分29秒

言わずとも、相手には伝わってほしい。本当はそれを感じとってほしい。
誰もが一度はそう願ったことがあるのに、そういうことに限ってうまく伝達していないようだ。

そもそも、私たちはなぜ言葉で真意を伝えようとしないのだろうか。どうして"感じとってほしい"のだろうか。
理由は複雑なようだ。

まず、本当のことを言うのが恥ずかしいのだろう。
そして伝達できないのがこわいからだろう。

自分の本心の話すというのは、なかなか恥ずかしいことである。話そうと意気込むと、必ず相手の反応が気になり、ついつい話後の雰囲気や相手のリアクションを想像してしまったりする。
ここで何も考えずに勇気を振り絞って言ってみる。すると考えていたセリフは何もまともに言えなかったりして、思わず正反対のことを口にしてしまい「これじゃあいつもと同じ通りじゃないか」なんて、帰ってから意気消沈してしまう。

伝達がうまくできないとうのは、予想以上に私たちにとって大きなストレスであり、習慣化すれば非常に大きなコンプレックスともなろう。
もし自分は言いたいことをきちんと言えたとする。相手の反応も悪くない。だが、それで自分の言葉が伝わったのかと言えば、そうじゃなかったりして、相手がまったく勘違いして言葉を理解して「なんだそうだったのか」と間違ったまま理解、納得されてしまう。
誰しも必ず一度は経験しているシュチエーションだと思うが、こうなると非常に後味が悪かったして、素直になった者の傷は大きい。これが繰り返すと話しては本当のことを言うのが億劫になり、相手に伝えたいことを言葉にするのが苦手になってしまう。

人間とはさもデリケートな生き物らしい。


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2007年3月21日(水曜日)

カテゴリー: - etupirka @ 07時47分48秒

詩は何を持って"詩"と定義されるのか。

大衆の誌に対する見解はおおよそ次のようなものだろう。

「とにかく難解」「読む気がしない」「ナルっぽい」「意味がわからない」

普段、他人に対して本音を言わず、話をしても何の脈絡もなくおもしろみもなく、自分中心に支離滅裂なことを言っては黙るような奴らは、詩に対して謝ったこのような偏見を抱いているようだ。無理もないと思う。

私が彼らを擁護する最大の理由は、私たちが詩というものを学んだ過程にある。幼稚園・保育園のとき、誕生日に両親から詩をプレゼントされた。おばあちゃんにち遊びに行ったとき詩を教わった。そんな素敵な思い出をつくってくれる親族がいたら素敵だが、子供からしてみたら良い迷惑だと思う。
おおかたの人は小学校に入り文字を学び、「こくご」の教科書の真ん中より後ろで詩を学んだだろう。さらに半分の児童はそれより前に詩を見知ってはいただろうが、そのほとんどは創作の経験はなく、さらに半分(全体の1/4)の生徒は詩が具体的にどのようなものなにかは理解しておらず、残りの生徒は単に詩を誤解している(その誤解は後述する理由により一生解かれることもなく、したがって真実となる。また、正しく理解していた生徒がいたとしても、やはり後述する同じ理由で間違った価値観を植え付けられ、やはり誤解したまま一生を終える)。

悪いのはやはり国語の授業だ。何度でも書くが、あれほど日本人に対して"日本語での表現"というものを誤解させるものはない。子供たちにとっての「こくご」の授業は、まさに百害あって一利なしだ。事実、多くの日本人は国語の授業のせいで文学から興味を失う。言葉の持つ幻想性やおもしろみ、表現の喜びは何一つ学ぶことが出来ない。また、国語の授業で学んだ者がいたら、その"喜び"は誤解である。あまりにも陳腐すぎるハナシだが。

国語の授業は万人に対して良い思い出を残していない。国語教師の独壇場というか、教師が思い上がって一人で浮かれている、国語教師とかいう名前の、他に働き口もないアホの独りよがり、勝手な自己満足にしか過ぎない。

こうやって多くの日本人は"国語教師"のマスターベーションを休むことなく9年間+3年間見せつけられ、国語がイヤになる。仕事以外でペンを持たなくなる。
そして国語の中でもっとも素敵なはずの詩を嫌い、避けるようになる(「こくご」の授業で無理矢理変な題目で書かせ、さらにそれを他の児童の前で発表させたりするからだ)。

少なくとも私は、そのような国語教師としか出会えなかった。もし国語の先生が辻仁誠や俵町だったらこの意見も変わっていたのかもしれないが。

未来の国語のセンセイに期待しよう。まぁ、自分の子供には"あいつらはわるいやつだ"と教えるけどね(真実だから)。


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2007年3月20日(火曜日)

その言葉が許せない

カテゴリー: - etupirka @ 08時24分14秒

ふと、Thunderbirdに届いたブログを見ていて思い出した。どうせ本人や読んでないだろうからここに書いておこう。

“それって好きなんじゃないの” “付き合ったら良いのに” という類の言葉は最悪にウザい。

こういうことを平気で言えるようになったらもうおばさんだと思った方が良いと思う(男はこの手の言葉は思っても口に出さない)。

ドラマや芸能関係の話題と同じように他人の恋愛を扱っているように思えるのですが、いかがでしょうか。

そういう人は、自分の恋愛についてもドラマのようにしか捉えることが出来ないんだろう。


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2007年3月19日(月曜日)

長い文章が書けません

カテゴリー: - etupirka @ 04時38分57秒

書けなくなってしまった。長い文章が。

確かに、ここ最近は目にする長めの文章といえば英文、書くのもほとんどが英文だったから、日本語の文章を書けといきなり言われても、困る。
ただ、それとはまた別に、文章が書けない人間になってしまっていることに気づいた。

原因は非常に心理的なもので、どうも長い文章を書いていると「あ、もう誰も読んでないだろうな」とか思ってしまう。話をしていてつい長くなってしまっても同じ状況になる。

実際のところ、話の長短にかかわらずおもしろいことは一切書かれていないのだから、さほど気にすることはない。
頭ではわかっているのに、どうしても気にしてしまう。でも書きたい。話したい。

というわけで書いてみた。英語でも日本語でも良いから、とにかく何も気にしなせずにぐだぐだとながながともうどんだけってぐらいにしかもこうしんかんかくまでもてきとうにかいてみよう、と思う。
よって過去ログ等の案内はしばらくは出ない。


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プロフィール
1940年11月29日、東京都葛飾区柴又に生まれ、16才で家出し、20年後に腹違いの妹が暮らす故郷に帰って来た寅さんの本名は寅次郎である。