私のプロフィール
私という人間を一語で表すのは難しい。特に難しいのはこの「一語」の解釈だ。
英語の場合、「一語で示せ」「一語を抜き出せ」と言われると(そんなことは滅多にないが)、単語1つのことなのだな、とすぐにわかる。
しかし日本語の文については、英語のように単語が並べられてつくられているという意識が希薄なため、一語が何を示しているのかわからない。
「一語とは文節のことだろうか?まさか1文字という意味ではない」
そう考える人が圧倒的に多いだろう。
文節というと、中学のときの国語教師が「私は外に出た」という文を、どれだけ左右非対称な顔で言えるか挑戦していたことを思い出す。
そもそも文節というのはは、それだけで何らかの意味を持つまとまりのことだ。簡単な見分け方としては、文節末と思われるところに「ね」を置いて意味が通ったらそこが文節の切れ目になる。
国語教師はその見分け方を伝えるために、このように手本を示した。
「私はねー」「外にねー」「出たよー」
「私は外に出たよ」ほどの短い文ならまだしも、これが「私は午後に雨が降っていたら外に出るつもりだったが晴れていたのに引きこもっていた」のように長い文になるともう聞いている方は拷問である。
「私はねー」「午後にねー」「雨がねー」「降ってねー」「いたらねー」「外にねー」・・・・・・・・・
なぜ言いながら顔の表情を動かす必要があったのか(顔までは認めたとしてもなぜ首まで連動させて動かしていたのか)、当時は非常に不可解だった。今は、というと出来るだけ考えないようにしている。だからどのように動かしていたのか具体的に説明出来ない(したくない)。
最初の頃は笑いをこらえるのに必死だったが、授業も後半になると次第に飽きて笑えなくなった。特にこの授業が2時間目に突入してからはすべてが苦痛だった。
やはり、「一語」というのは、日本語においても英語においても「単語」と解釈するのが順当だろう。
この単語というのは区切るのが非常にやっかいな代物である。
区別がもっとも簡単なものとして、まず、間違いなく断言出来るのは「文章」である。とりあえず日本語が書き散らかされていれば、たとえ未完でもそれほど脈絡が無くても、かたまりになっているところを「文章」と呼んで差し支えない。
「脈絡がなくても文章と呼んで良い」という部分に反論を持つ人がいるかもしれないので、少しだけ解説しよう。
たとえば以下のような日本語の文字列があったとする。
私は焦っていた、なぜなら眠いからだ。明日は待ちになった大切な何かがあるわけでもなく、そこで突然チャイムが鳴った。おかしい。うちのチャイムは壊れているはずだ。壊れているはずのチャイムが鳴るはずがないと思われるが思わないかもしれないけれど思うようにして思っておこう。日差しがまぶしい。昨夜は本当に疲れた。何時間眠ったのだろう。寝た時間と起きた時間の記憶がない。記憶がないのは私がヨン様だからかもしれないと母がそう言いました
このような意味のない文字列でも、それ自身が独立したものなら文章と呼んで差し支えない。異論はないはずだ。
だからと言って「脈絡が無くても」というのは拡大解釈ではないのか、と思った方は次の文をお読みいただきたい。
病気のせいで音痴になるのですか?それって実証とかそうである!みたいな確定なものなんですか…?
やっぱ個人差あるんじゃないでしょうか…?
自分も同じ病気の人間ですが、音楽をやっていましたが、楽器や和太鼓してるけどあまり気になったこともありませんでした音楽って要は音を楽しむって書くし
病気のせいにしてしまうのもありかもしれないけど…
自分は音楽や楽器好きだし
それがあるから頑張れてるし
まずは楽しむことがまず第一だと思いました
これを要約すると「元の発言者は病気に関係なく音痴である」「私は音楽が大好きです」の2文に要約される。
もしこんなの文章をメールで送られてきたら「だから何?」と困惑するだろう。しかしながらワードサラダ同然の文の集まりも、分類するなら、「文章」として認めなくてはならないのだ。
以上に例を示したように、本人が意味があると思って書いた文章でも、他人が読めば何の情報も引き出せない、価値を見いだせない文集合というのは往々にして見受けられるのだ。
これはもう、独立した文字列のすべて文章と呼んで差し支えないだろうと断言せざるを得ないのである。
さて話は戻るが、文章は「文」が集まって構成されている。「。」の間に区切られた文字列のことを文と呼ぶのだ。そこから意味がわかる程度に文を区切ったものが、さきほどの文節であり、さらにそれを最小単位に区切ると単語になる。
この最小単位というのが厄介者だ。先の文であれば、以下のように区切ることが出来る。
「私」「は」「外」「に」「出」「た」
また、人によっては次のように区切るだろう。
「私」「は」「外」「に」「出た」
正解はおそらく後者だと思う。
なぜ「私は」や「外に」はまっぷたつに区切られてしまうのに、「出た」だけは繋がったままなのだろうか。理解できない。
『そうやって仲間はずれをつくるのは必ずしも良いことだとは言えないんじゃないの?』『勝ち組負け組ですか?』『「出た」は金で根回ししてるんじゃないの?』と感じた人もいるだろうと思わない(思わない)。
これまでの説明で、私という人間を一語で表現するのがどれほど難しいか理解いただけたと思う。
最後に『一語というのは単語である』という前提の元で、私という人間を表してみよう。
私という人間は『私』である。





