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あれ、打ち間違ってる?

2007年11月16日(金曜日)

私のプロフィール #2

カテゴリー: - etupirka @ 02時31分38秒

ご自分の意見を言葉にして伝えることが出来ない方はご遠慮ください。
最初にそう名乗り出ていただければ考慮しますが、基本的には、ご自分の意見は伝わらないものだと最初に諦めておいてください。
当方は言いたいことは言葉にしないと伝わらないものだと考えています。

もちろん、もし私とあなたが長年連れ添ったパートナーだったり、深い恋愛関係にある場合は、その限りではありません。
そのために、まず、私とあなたがそういった特別な関係になる必要があります。
方法はとっても簡単です。所定の申し込み用紙に必要事項をご記入の上、ご利用規約、ご利用料金表をよくご確認の上、お申し出ください。

大変残念なお知らせですが、申し込みには常時1名の定員を設けております。
当方のキャンセル待ちのシステムはあまり公平に出来ておりませんので、必ずしも先着順であなたの順番が回ってくるとは限りません。順番よりもっと違う何かを優先させて頂いております(場合によってはキャンセルを待つ必要もなくなるという画期的なシステムです)。

上記の定員システムについてご理解頂けない方には、別に専用のコースを設けておりますので、ぜひそちらをご利用ください。
その際ご注意願いたいのは、そちらのコースから通常のコースへの乗り換えは不可能である点です。ご納得頂けなくなった場合も、何らかの力を働きかけて無理矢理コースを変更させようとしないよう深くお願いいたします。
また、専用コースの申し込み人数に上限は設けておりませんが、そのコースによりあなたの人生に何らかの失敗が生じたとしても当方では一切の責任を負いかねます。申し込み前に、今一度ご両親のお顔を思い浮かべてからご契約なさることを強くお勧めします。キャンセルの場合も、返金はいたしません。

この専用コースで生じた一切の費用はそちら側の負担となっておりますが、ある所定の場合の除いて、それが免除になる場合があります。
特別控除制度についてのお問い合わせ時には、必ずご自身のお顔と全身が確認できる写メを添付の上、お問い合わせください。それがない場合は、お返事いたしかねる場合がございます。
なお、学生証をお持ちの方は、無条件でご利用頂けます(幼稚園、小学校の有効な在籍証明書をお持ちの方については、誠に遺憾ではございますが、法律上の決まりによりお断りいたしております)。

利用規約、利用料金についての記述を本気でお探しになっている方は、冗談のわからない人だと判断させていただきます。言い忘れておりましたが、ちょっとの分量の文章を読むことが出来ない。集中力がない。人の話を理解しようとしない。冗談の1つもわからない方は、私とコミュニケーションをとるのは難しいと思われます。

くれぐれもこの件についてお問い合わせのないようよろしくお願いいたします。


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2007年11月14日(水曜日)

ニュー速民は卑怯だ

カテゴリー: - etupirka @ 22時58分07秒

あるITmediaの記事。

www.itmedia.co.​jp/news/article​s/0711/14/news0​75.html

ずらっと見慣れない言葉が並んでいる(ように私には見える)が、これらが「現代用語の基礎知識」という本に収録されるという。

「アサヒる」そして「アベする」が収録されるようだが、これは客観的に見て五十歩百歩の関係なのでは?

そもそも「アサヒる」騒動とは、アサヒの記事を書いた人間が、「アベする」という聞き慣れない言葉が、あたかも色々なところで使われているように記事に書いたことに端を発した騒動だ。ニュー速民らはこの朝日側の言動を皮肉り、ねつ造するという意味の「アサヒる」という造語を生み出した。

しかし、「アサヒる」という言葉も、外から見ればニュー速民らがねつ造した言葉として解釈が出来る。だって、それまではそんな言葉がなかったのだから。

今回収録される他の語には、「正直、唖然としました」というものがある。

「お前バカだろwww」を、オブラートに包んだ言い方。
ネット上の議論でよく使われる。
同義語に「正直、呆れました」がある。

さて、議論でよく使われるとのことだが、私はこんな言葉初めて聞いた。もしかして、ここはネットじゃないのか?
ネット上じゃなくて、2ch上(のどっかの板)と書かれていたら意味は通じる。どこの板か知らないが、そこだけがネット上だと思いこむのは勘違いも甚だしい。
私はこれを書いた書き手のあたかも「俺は世界の中心に生きてる」かのような振る舞いに、正直、唖然としている。

アサヒるの件についても、騒動の中、記事を書いた当人は「アベする」について、ねつ造ではないとブログ上で発表している。当人が感じて書いたことなのだから、誤解・勘違い等はあったとしても、それをいちいち取り上げて「ねつ造だ!」と揚げ足を取る行為こそ、ねつ造騒動のねつ造なのでは?

新聞社側はこれほどの重圧をかけられる一方、ニュー速民たちは思いつきと偏見から匿名で好きなこと言いたい放題。造語も作りたい放題だ。
こんな一方的な現状では、ニュー速民そしてネット全体の意見が、新聞やテレビなどでまともに取り上げられたり、その声が反映されることはないだろう。

ニュー速民、彼らのやり方は卑怯だ。

彼らの言動は、従来のメディアに取って代わり、新たな「偏見」をばらまく行為だ。

今、ネットの意見として紹介される意見のほとんどは、一部の人間が唱える行き過ぎ言動ばかりである。それらの意見は確かにネット上で発言されたかもしれないけれど、それがあたかもネットの総意だと解釈されると困る。「何を突拍子もなく」と言うかもしれないが、人間はたくさん人が主張する意見よりも、1つの目立った突飛な意見にだけ注目し、それが全体の意見だと勘違いしてしまいやすい生き物なのだ。ニュー速民たちのように飽きっぽく、そのくせにねちっこく恨みっぽい人種の意見は、必ずしも大勢の総意とは一致しない。。

これでは結局、昔と何も変わっていない。
メディアが大衆に意見を押しつけていた時代と、メディアの言動をすべて逆手に取ろうと色眼鏡で見る時代。これ、いったい何が違うの?

メディアという大きな権力に対して、ネットという大勢の目が保持する対抗勢力の価値は確かにある。またその担う役割はこれから徐々に拡大すると想像する。しかし、今はその力がうまい具合に働いているとは言えないだろう。

思ったことを意見するのが自由なのも、そういった行為がネット上で実現出来ることもよくわかった。
でも、私たちは意見を気分で吐き捨てては忘れるのではなく、その意見に対して発言者個人が責任を持つようにしなければならない。そういった転換点がそろそろ来ても良いのではないだろうか。
うまく行けば、私たちは今よりももっと大きな力を持てるようになるはずだ。その力は決して単なる自己満足に終わることはなく、外部から正当に評価される強大なものとなるだろう。逆に言えば、それが確立されるまで新聞とテレビは依然としてやりたい放題のままなのである。


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2007年11月11日(日曜日)

真夜中でも可能なSOS

カテゴリー: - etupirka @ 01時51分49秒

「ブログのここが良いなぁ。」と思う部分を1つあげるとすれば、まず思いつくのが、ブログが書き手の避難所の役割を果たしている点だろう。

言葉で説明するの苦手だから、例を出そう。

blog.livedoor.j​p/poison666/のキャッシュ

最後は池袋パルコから飛び降りて自殺をしたらしい。この人がそれまでの1年間生きながらえられた理由があるなら、その1つとしてこのブログの存在をあげても良いのではないか、と思う。

書く、という行為は自分の考えを整理するための最適の方法の1つと言える。書くことにより、自分の考えが整理され、問題がクリアになる。

だからブログは、何か不満があるときの八つ当たりの手段としてはなかなか適しているのだろう。携帯でもパソコンでも、どこからでも投稿できる。手帳や日記帳に書く行為との違いは、書いた後に人から(それもほとんどの場合は自分に対して肯定的な感情を持った友人などから)見てもらえ、言葉までかけてもらえるところだ。これがうまく機能している状況を至るところで見る事が出来る(個人的には「痛い応酬だ」くらいにしか思えないけど)。

こういった点から、ブログはチラシの裏として必要とされている機能をすべて備えていると言って良いだろう。嫌になったら消しても良いし、人にバレちゃまずいことを隠れて書くことも出来る。その気になれば別人になりすませて理想の自分の日々を書きつづることも可能だ。

さて、便利な道具の登場が、それ以外の何か不便な道具の存在意義を奪ってきたのは私たちの歴史の常である。たとえば、工業の発達によって生まれた大型機械やコンピュータは、私たちの暮らしを便利にする一方で多くの職人さんの仕事を奪って来ただろう。ブログもまたその歴史の例外ではなかった。

ブログによって失われたものがあるとしたら、それは従来の人間づきあいのあり方、と呼べるものだろうか。今までなら誰かに自分の話を聞いてもらうためには、時間を気にして相手に電話をかけたり、頼んで時間をとってみたり、手紙を書くといった方法しかなかった。それらは、メールとネットが当然と今となっては非常に古く感じられる手法だ。何より不便である。相手に会うにしても、携帯なしでどうやって約束を取り付ければ良いのかわからない人も多いのでは?私用で相手に電話するときだって、その前にメールで断る人がいるのが普通になってしまっているくらいなのだから。

私は、失われた文化について、それを惜しんだり、復興させようとは夢にも思わない。気になることがあるとすれば、それはブロガーが無意識にでもそれを自覚しているのか?ということだ。「今はこんな時代になってしまった。昔は良かった」と嘆く人がいる。でも、今と昔というのは、年表のどこかに線が1本引かれて別れている代物ではない。文化は時間の流れに任せて少しずつ変わる。その変化そのものよりも、何かが移り変わる様にみじんも気づかなかった鈍い神経の方がよっぽど問題なのでは?と言いたくなることがあるのだが・・・。

曲がりなりにブログのようなものを書いている私だが、「私のボール」を書き上げたとき、やっと書きたいことが書けたと思った。上から下まで1度も修正なしで書いたけど、これは自分としてはとても珍しい。やりたいことはすべてあの中で終わった。だからもうしばらくはああいうものを書くことは無いと思う。


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2007年11月7日(水曜日)

私のボール

カテゴリー: - etupirka @ 04時20分16秒

見失ったボールを追いかけるな

僕が人生で学んだ経験の1つは、まさにこれだろう。「見失ったボールを追いかけるな」

私たちは1度ボールを見つけると、無意識にそれを追い続けようとする。ボールがなくなると悲しい。だからボールをなくさないようにする。

世の中には数え切れないほどのボールがある。ボールのほとんどは代替の効く代物だ。
私たちの多くは、そのボールが手にあるうちは、自分のボールはそれ1つしかない考えている。でも、一旦そのボールを失うと、器用にも次のボールを見つけて、いつのまにかまた自分の手中に収めていたりする。

ボールの良いところは、右にも左にも好きなところに転がっていけるところだ。
ボールの悪いところは、右にも左にも好きなところに転がっていけるところだ。

ボールとはつまり、私のことである。あなた自身もまた、ボールなのだ。

かつて、あるボールを追い続けたことがある。
そのボールは私にとって非常に珍しいものに見えた。今までに見たことがなかったボールだった。だから、自分の手の届くところで眺めたいと思った。
願いは思っていたよりも簡単に叶った。夢にまでみたそのボールは、私が思っていた以上にとても美しいものだった。最高だった。本当に、素晴らしかった。

それほど素晴らしいボールは、1度でも落としてしまうと、2度と私の元に戻ることはないだろう。
私たちは縁日の金魚すくいでそれを学習した。あのモナカのカップで金魚を掬おうとすると、子供ほど大きいものに目が映り、そして案の定失敗する。掬った、と思った瞬間は実は最も弱く、その次の瞬間に油断してしまい、金魚は逃げてしまう。1度逃がした金魚の捕まえるのは、最初に捕まえるときよりも難しい。
あの素晴らしいボールも、また、縁日の金魚と同じだった。

私が手にしたと思ったボールは、すぐに私の目の前から消えてしまった。
1つのボールにこだわり過ぎたのが良くなかったようだ。ボールは右に左に転がり、気づいた頃にはとっくに手の届かないものとなっていた。

私たちの多くは、ボールをなくしたとき、それはボールが悪かったのだと結論づけてしまう。
でも、それを私は潔しとしなかった。
ボールがなくなってことより、ボールを知ってしまったことそのものを後悔する人も多い。
それは私には卑怯なものに思えてならなかった。

私はボールを呪う代わりに、私自身を呪った。その選択肢を選んだ。

私は今でもあのときのボールを探し続けている。
そのボールはもう「私のボール」なんかではない。それは「私の」と限定することは出来ないという意味でもあるし、それと同時に、私自身が「私の」といった言い方をしたくないからでもある。
理由は簡単。なぜなら、私自身もやはりボールであるからだ。
ボールは、『ボール』として見ているとすべて同じように見える。でも、1つ1つをちゃんと見てやると、すべてが違うものだとわかるし、本当に代替可能なボールなんて1つも存在していないのだ。
「私の」と勝手に名札付けしてしまう行為は、そういったボールの独立性に対して非常に失礼である。それは犬が電信柱にマーキングをしているのと同じ行為だからだ。あるボールはあくまでもそのボールであり、それ以外ではないのだから、それ以上のものとして扱ったり、干渉しようとしてはいけないのだ。私のボールと言えるのは、あくまでも自分自身のことだけだ。

ボールを追い続けている時間の半分は、ボールがどこに転がるかを見ていた。ボールの転がる先を決め、誘導したこともあった。
残りの半分は、ボールが再び確認出来るようになるのを待っていたと思う。

最近までずっと見失っていたボールを、やっと見つける事が出来たときは、本当に嬉しかった。
1つ誇れることがあるとすれば、それは私が決してボールをやめなかったこと。世の中の多くのボールは、すぐにボールをやめようとしてしまう。
見失っていたボールを見つけたとき、その衝撃は私がなおボールを続けていた事実を私自身に知らせてくれた。私はボールなのだ。そう思い出した途端、その事実が私の心を強く揺さぶった。

昔のことを思い出す。自分はなぜ同じボールを追っているのだろうか。本当は、何度も違うボールを拾おうとした。でも、新しく見つけたボールに近づいてみるたび、私は絶望したと言っても良いと思う。そのたび、昔見つけたあの素晴らしいボールのことばかりを思い出してしまったのだから。
何度も追うのはやめようと思った。見失ったボールは追ってはいけない。でも、そんなこと最初からわかりきっていた。わかっていて、始めたことだったのだ。

実は最初のきっかけを忘れたらやめようと決めている。それは素直に「嬉しい」と思えたこと。その感覚が忘れられてしまったら、もうやめようと思っている。
でも、そう感じた瞬間の数々は、今はもう私というボールの隅々にしみこんでしまい、洗っても、こすっても、決して落とすことは出来ない。
その気持ちの一部は姿を変え、まったく違うものとして生き続けている。それはもう最初の純粋な形を失ってしまったとても複雑な形だが、そんなものは単なる見た目の問題だ。大切なのはもっと違うところにある。それを忘れてはいけない。だから。私はそれを簡単なものとして言葉に還元すようとはしなかった。説明を求めた人を心底不愉快にも思った。

私はボールだ。違うボールにぶつかっては向きを変え、行く当てもなく、確固たる確信も保証もなく、いくつく先を求め転がり続けるボールだ。
もうしばらく今のボールをやめるつもりはない。素直に「嬉しい」と思える間だけは、あのときの楽しい時間のことを忘れたくはない。


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2007年11月6日(火曜日)

子供がおもちゃに見るもの、大人がおもちゃに見るもの

カテゴリー: - etupirka @ 19時45分26秒

久しぶりに子供向けの玩具売り場に行った。そこは店名に「赤ちゃん」という言葉が入るお店だ。主に赤ちゃんとその母親に関連するグッズを卸値で取り扱っており、当然、売り場の一角では玩具も取り扱っている。

小さいとき、おままごとが好きだった。私がもっとも料理に触れたのは3才以下のときだろう。それくらい好きだった。
その頃のおままごとグッズと言えば、ほとんどがプラスチック製品だ。1つ1つのアイテムにはリアル感もなく、プラスチックの成形もあまり良くはない。バリがついたままの製品がそれなりの良い値段で売られているのも普通だった。

昨日、おもちゃ売り場で見たままごとグッズは、そういった意識のものとはあらゆる意味で対照的だった。
まず、材質は木だ。野菜や調理用具など、必要なものはすべて木で出来ている。仕上げの加工も悪くない。それどころか、1つ1つ丁寧に色が塗られており、野菜の表面には、細かい穴が開けられていたり、しわなどが彫刻され質感が演出されている。
さらに、すべて野菜などの食材は包丁で切れるようになっている。一切れ一切れがセパレートのパーツになっており、それらがマジックテープで合わさった状態で売られている。別売りの木の包丁で切れるようになっているのだ。

これほど精巧なおもちゃがトミカ1つ分の値段で販売出来るようになった背景には、何があるのだろうか。
まず、機械の進歩にあるのだろう。工場などの特注機械の精度が向上し、また値段も安くなった。
だがそれ以上に大きく関わっているのは東アジアの労働力だ。

バブル期以降、東南アジアをはじめとした工業地帯・地域や中国沿岸部に、日本をはじめとする先進国の工場がつくられた。
現地の労働力が豊富で安い。現地に資材を集め、出来た製品を輸送するコストを考慮してもなお安価なのだ。
先進諸国が途上国の資源を食い物にしている、という話を耳にする。まさにこれはその尤もな霊の1つの例だ。

さて、木で出来たままごとセットは、1つ1つが手が凝ったつくりながら、安価な値段で販売されていた。
大人や、プラスチックより木の方が良いと考え子供にそのままごとセットを買い与える。だがそのおもちゃは途上国の森林から無計画に伐採された木からつくられ、それを現地の人が安い賃金で加工されている。果たして、こういったおもちゃを子供に買い与えることは必ずしも「善」と言えるのであろうか?
そのようにつくられたおもちゃは、何もこのままごとセットだけではない。広い売り場の中でも、国内で生産されたおもちゃを見つけ出すのは至難の業だと想像する。私が知っている限りでは、ガンプラなどのプラモデルくらいだ。

自分の遊ぶおもちゃがどのようにして作られたか、子供は知る由もないし興味すら持たない。
でも大人はそれを知っている。たとえ知らなくても、知ろうと思えば知り事が出来るし、少し考えば思いつけるはずだ。

翻って、国内では格差の問題が騒がれている。私が読んだ資料では、日本は世界でも4番目に富める人と貧しい人の間の差が広い国だそうだ。
東京は本当に地方を食い物にしている、とも聞くがそれは本当だろう。日本は他のどの地域をも食い物にしていないのか、考えたことがあるか?日本全体が幸せなら、それで良いのか?その幸せはどこから来た幸せなのか?

誰かが得をしている分、誰かが損をしなければならない。
だから「食い物にされている」と呼ばれる現象は常に世界のどこかで起こり続けなけらばならない。安価で海外製のおもちゃや食品を購入しているあなたは、海外の人々を食い物にしていないのか?

自分の子供に本当は何を教えなければいけないのか。国内の格差問題にお腹立ちになられている方は、まずそういう問題から解決していくべきだと思う。
己の財布の中身だけを見て、何も考えず「損した」「得した」ばかりにこだわる人々は、なんて愚かなのだろうか。大人は子供にそんな自分の後ろ姿を見せたいのか。

本当は、何も努力をしていない人も努力した人と遜色のない生活をしていた時代の方がおかしかったのだ。
10年前までは途上国の人だけが損をすることにより賄われたあなたの幸せは、今は国内のあなた以外の人が、あなたの幸せのために損をしなければならなくなった。同様に、あなた自身も誰かのために損をしなくてはならない。

「昔は私たちがすべてを食い物にしていた」と考える人や、「金持ちが貧乏人に食い物にされていた。今も金持ちは給料の半分を税金に持って行かれ、貧乏人の食い物にされている」と考える人はいないのか?なぜそういう考え方がメディアに紹介されない?


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