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あれ、打ち間違ってる?

2007年11月28日(水曜日)

もしかして文章長いですか?

カテゴリー: - etupirka @ 05時41分24秒

すみません、色々と理屈*1はありますが、反省の証として今日は1行でやめます。

*1 「私のプロフィール」を書いているとどうも長くなるんです。先日、某所で運用予定のチャットプログラムの作者のプロフィールを読んでいたら、結びのところに「この文章は一年位かけて書きました。」という記述がありました。そうなんです、プロフってやっぱりそれくらいのエネルギーが必要なんですよね。今までその努力から逃げて来た私ですが、「それじゃあダメだ」と決心し、プロフィールに目を向け始めてから、そろそろ4,5ヶ月になります。まだ1年には遠く及ばないし、当然満足のいくものも書けていません。だからこそ、真剣に書き続けるんです。最近、徒然草を原文で全段読み直していますが、兼行の文章ってどれも物事の本質を深くついているのに、キレがあって短いんですよね。なるほど、これが文章のあるべき姿なのか、と1段1段読み進めるたび、己の怠慢さを反省しきりです。内容の量と文章の量は必ずしも比例するわけではないし、文章は一般的に短い方が良質なのかもしれません。逆に言えば、考える時間はいくら長くても良い。でも、その時間の努力が文章ににじみ出てはいけない。というわけで、今回はきっちり時間をかけて、この注釈を表示するためのスクリプトを用意するところからブログづくりをはじめてみました。まさかこんなくだらない注釈を表示するために、時間をかけてスクリプトをいじった人がいる(それがしかも文章を書いている当人)だなんて、誰が想像していたでしょうか?いや、誰にもわからなかったと思います(反語)。この調子で精進していけば自分も兼行のような文章が書けるようになれる日が訪れるかもしれません。それが無理でも、この手を使い回せば何度でも一行ブログを量産出来るでしょう。いやぁ、良かった良かった。


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2007年11月27日(火曜日)

私のプロフィール #3

カテゴリー: - etupirka @ 12時21分25秒

私のことをオタクと思っている人がいるらしいが、それは違う。

たとえば私はドイツの戦車のプラモデルをいくつかつくり、ジオラマをつくる。その一方でフィクションの小説を読み、必要があれば自分のパソコンは自分で自作し、音楽を聴き、自らも楽器を演奏する。休みの日に三脚と小さな脚立を背負って写真を撮りに行くこともあれば、ラーメンをつくってみたり、簡単なプログラムやスクリプトを書いて遊ぶこともある。レゴには子供の頃から20万円は投資しただろうか。
私の趣味は偏りがなく、むしろ色々やり過ぎている方だと断言出来るのではないだろうか。冬にはこれにスキーが加わる。

さらに、オタクではない、と主張する最大の根拠は他にあるのだ。
それは、私がどれかの分野に特出した人間というわけでもなければ、そうなろうと努力をしたこともない、ということだ。

一例を挙げよう。私は平均的な同年代の日本人よりも英語が出来る方だと思う。ちょっとした長い文章であっても不自由なく読み書きが出来る。
でも、今までの人生の中で、必死に英語を勉強したという事は1度もない。例外は学校のテストの前日に必死で教科書を暗記したくらいだ。英語の読み書きは私にとって運良く相性が良かっただけのことであり、努力をして身につけたものではない。

その証拠に、同じ英語でも、聞く話す能力については一切持ち合わせていない。
私が自分の意思で英語を話したのは高校の授業で日本語の通じない教師に質問をしたのが最初で最後だ。それ以来使う機会に恵まれないため、上達するどころか昔覚えたはずの会話表現を忘れていく一方だ。残念ながら私には「英語オタク」の素養はない。

この話は、私が持っているほとんどの能力について言うことが出来る。私が趣味のために時間をかけて勉強をする必要がなかったのは非常に幸せなことだった。もし、私が人よりも傑出した知識や能力を私が身につけているとしても、知識のほとんどはGoogleで検索すればわかることばかりだろうし、能力(スキル)についても、ちょっとその気になって手出しをすれば、すぐに感覚で身につくものだろうから、たいしたものではない。何かのきっかけでちょっと目立っているだけのことなので、凄いことではないから、誤解してはならない。
たとえば1時間半もあれば、軽い長編ミステリの1つくらい読めてしまうが、これを人を早く読もうと努力したことは一度もない。*1 速読の本を買ったことはない。写真の本を買ったこともない。音楽の理論書や歴史の本は買ったことがあるけど、退屈ですぐに投げ出してしまった。こんなオタクがいたら、他のオタクに失礼だと思う。私は、オタクと呼ばれるのには値しない人生を送っている。

*1 この点に関して、むしろじっくり味わいながら読もうと考えている人なので、1冊を人よりもなるべく長く何日もかけて読んでしまう。短く読めるのが凄いと思っている人の考え方が理解できない。

今まで、たまたま相性が良かったものをちょっとずつ手出ししているだけだ。楽しいと思うから、どんどん手を加え続ける。他の人よりもちょっとだけ秀でたスキルが身につくのは、あくまでもその過程で起こっただけのことであり、目的ではない。それに、苦手なものを努力して習得しているわけではないので自慢したこともないし、他人様から「オタクだ、マニアックだ」と言われると、逆に「お前はこんな簡単なことも出来ないのか?」と尋ね返してしまいたくなる。実際、そうやって人から嫌われてしまったことがあるくらいだ。
でも、私はテレビを見ない。新聞も読まない。世の中には毎朝、毎晩のように新聞やテレビを見ている人がいる。私はこれらのどちらとも相性が悪いみたいだから、それを毎日飽きもせず見続けている人を素直に凄いと思っている。凄いと言えば、カラオケも凄い。*2 ここらへんは「お互い様」だと思っているけど、だからといって彼らを「テレビオタク」や「カラオケオタク」とは呼ばないし、無理してそういっても笑われるだけだろう。

*2 私は絶対音感・相対音感を持っているけど、カラオケだけはお断りだ。分厚い海外ミステリを黙って読まされるのが罰ゲームだと感じる人がいるように、他人の面前で、しかもあの狭い空間で何時間も歌を歌うだなんてよっぽど重い罰ゲームじゃないかと思う。

このように私ほどオタクとほど遠い人間は珍しいことはわかって頂けたと思うが、実は最近になり、そろそろオタクになった方が良いのではないか、と思っている自分がいたりする。
兼行は徒然草の第188段で以下の通りの言葉を残した。

若きほどは、諸事につけて、身を立て、多きなる道をも成じ、能をも付き、学問をせむと、行く末久しくあらますことども心にはかけながら、世をのどかに思ひてうち怠りつつ、まづ差し当たりたる目の前の事にのみ紛れて月日を送れば、事々なすこともなくして身は老ぬ。つひに物の上手のもならず、思ひしように身をも持たず、悔ゆれども取り返さるる齢ならねば、走りて坂を下る輪のごとくに衰へゆく。

つまり、色々なものに憧れを持ち、あれこれ手を出しているうちに年を取ってしまい、人生の短さに気づかぬまま、結局は何の憧れも達成出来ずに年をとってしまう、ということだ。
なるほど、私にぴったりな言葉だろう。

人生は長くて50年。50を過ぎれば、その後の人生はそれまでの残りかすを搾り取りながら消費していくものだというのが私の持論だ。私のいう「人生」が終わっても、趣味を続けることは出来るけれど、その頃になったら新しいことはもう出来ない。趣味人としての豊かな晩年を迎えたいのなら、50までにはその趣味の楽しみをある程度は知っておかなければならない。
ならば人生の半分は25年だろうか? いや、人によっては40そこそこで結婚や出産などをきっかけに、どんどん鈍くなって腐っていく人間もいる。自分も例外ではない。折り返し地点なんて、とっくに過ぎていると思った方が良い。いつ自分は年老いてしまうのかなんて、そのときが過ぎた後じゃなきゃわからないのだから。

若いうちは色々なことに打ち込んだ方が良いという人もいれば、1つのことに専念して、そこから多くのことを身につければ良いという人もいる。
私は今までの自分の人生を棚に上げつつも、後者の説に賛成だ。無難に生きるのなら、そうした方が良い。

しかし、へそ曲がりでかつ物臭な私は、問われるたびに逆の選択をしてきた。難しい選択なのか、簡単な選択なのか判断は難しいけれど、そろそろ1つずつの趣味に見切りをつけなければならない頃なのかもしれない。
私がオタクという特定分野のエキスパートとして才を成すのには、まだまだ道のりは長い。


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2007年11月22日(木曜日)

女はダメだ

カテゴリー: - etupirka @ 23時28分07秒

中学2年の担任が女性だった。

その先生について印象が残っているのは、文化祭の企画会議で、実行委員でもない自分が会議に呼ばれたことと、先生が学校をたびたび休んだことの2つだ。
学校を休んだ日、教室には代わりの先生が来る。その先生から理由を知らされるわけだが、その理由は毎回決まって「子供が熱を出したから」というものだ。

次の日、先生は何食わぬかをでHRをはじめ、授業をして、給食を食べ、また授業をしてHRをする。
その間、自分が休んだ理由や自分の子供について話したことは一度もない。

これを見て、私は「これじゃだめだ」と思った。自分の担任は子供の用事で学校を休む。でも、他のクラスの担任は休まない。他のクラスの担任は男だった。
男は休まない。女は休む。これではいつまでたっても男女の教員が平等に扱われない。

私たちの世代の集まりでは、「女はダメだ」なんて口にすると、たちまち非難の目が向けられる。
学校では男女雇用機会均等法をはじめ、社会にある男女の不平等について教えられる。

高校の卒業式の前日、男女の身体能力について議論をした。そのとき、私の話に「それは男女差別じゃないか?」と切り返した男がいた。彼はスポーツの自己推薦で関西の某有名私大への入学が決まっていた。
彼は県内でも最も優秀なアスリートの1人だったが、市内で彼よりも好タイムで5000mを走った女が果たしていただろうか?50m自由形を彼よりも先泳ぎ切った女がいたのか?

差別してはいけない。社会の教科書にも、国語の教科書にもそう書いてあった。
そういう教育を受けたせいで、私たちはそういう先入観を持たされたのだ。先天的に生じた男女の肉体的な差異や社会的な立場の違いの問題についてどう対処すればいいのかは教えられずに。

でも、上の世代では、典型的な色眼鏡で男女差別問題を考えている人が大勢いる。私たちは私たちで、差別が「いけない」ということは教えられていたが、どう「いけない」のか、「いけない」ことをしたらどうなるのかは、教えてもらったことがない。
担任は、同僚の教員や私たちに対しての十分な説明を出来ていなかった。それ以前に、私たちにはいつまでも何も教えてくれなかった。

不当な男女差別を肯定するわけではない。だからこそ、先生には「説明」をして欲しかった。
欠けていたのは「理解してもらおう」という姿勢だ。その姿勢がない限り、いつまでも女は、自分の無能力を棚に上げ権利ばかりを主張するおこがましい存在だとしか認識されないのだ。

自分の子供が熱を出したら、当然有給をとって良いべきだ。
先生はそう考えていたのだと思うし、それはまた正しいかもしれない。

先生は1人の親としては評価されるべき存在だったが、自分以外の子供たちに差別の問題を教え説かなくてはならない立場の人物として失格だった。
隣のクラスの先生は、テストの採点に掛かりっきりで職員室で徹夜をしたりしていた。十分な準備をしていなかったから、新聞を被って寒さをしのいだ、という笑い話も聞いた。

大勢の子供たちは、自分には無関係な理由で、学校を休む先生より、その先生を信用した。生徒たちは、男女差別問題の本質を理解していなかったのだ。
生徒には、担任の言動は、生徒より自分の子供を大切にしているように映ったのかもしれない。それは、職業とその大切さに関する授業を何度もやった人の言動とは食い違って見えたからだ。

徹夜して仕事することは偉いことでも何でもない。冷静な国語教師はそう考えていたかもしれないし、それこそ学校が教育をしなけれらばならない真実だったのに、自分の生徒たちがその問題を誤解したまま3学期を修了したことを先生は知らない。
その年の春、先生は担任を引き継がず、市内への小学校への赴任していった。もう何年も毎年、小学校への転勤願いを出していたそうだ。念願が叶って嬉しい。先生はそう言って泣いていた。先生は私たちの学校から姿を消した。

「先生は私たちを見捨てた」
誰かがそう言った。


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2007年11月20日(火曜日)

最後の一押しで嫌われる

カテゴリー: - etupirka @ 03時07分12秒

今まで何度となくあったのが「一言多くて嫌われる」という経験だ。しかもその一言が的外れではなく、あまりにも正論過ぎる場合、相手から嫌われてしまうのだ。

人には「言いたいことはすべて言ってる」と公言しているけど、実はこれ嘘。
本当にそんなことすべて言っていたら、無駄な議論やはたまた罵り合いに追われ、他のことが出来なくなってしまうからだ。

本当は、言いたいことの半分も言っていない。半分は、我慢するか忘れるようにしている。

忘れるのは簡単なことだ。特に、相手が自分のこれからの人生と何らかの関わり合いを持っていない場合、一瞬で忘れられる。
しかし、自分と関係の強い人間だとそうはいかない。その瞬間忘れたとしても、次に顔を見たときには思い出してしまう。そうじゃなくても、次に議論になったときに、嫌でも思い出されるのだ。これらは我慢するしかない。

女性から出かけに「どっちの服がいい?」と聞かれたときは、素直に自分の意見を言ってはいけないよう、自分以外の人間に正論をぶつけてはいけない。
どうしても意見を言わなくてはならないときは、正論ではなく、当たり障りのないことを言えば良い。「何を当たり前のことを」と思うか「そんな卑怯なことをするなんて」と思うのかは、あなた次第である。

特にやってはいけない禁じ手を紹介しよう。それは過去の話をすることだ。

男というのは「後でやるから」「そのうち約束するから」と未来に物事を先延ばしするのが得意だ。
女性は逆に「あのとき約束してくれたでしょ!」「結婚する前、私に何て言ってたか覚えている?」と過去に遡るのが得意である。

男も必要なら過去に遡っても良いのだが、「いつまでそんな話をしているの?」「昔のことをぐずぐずするなんて男らしくないわね!」と言われてしまうのが関の山だ。
たとえそうは言われなかったとしても「それはあなたがそれよりも前にこういったからそうしたのよ!」とさらに過去に話が遡るだけの問題である。

冗談はさておき、過去のことというのは、ほとんどの人がうっすらと記憶に残っていてものだ。
だから、他人からそのときの失敗などを指摘されると、どうしても頭に血がいってしまいがちである。

過去のことは、もう起こってしまったことだ。起こってしまったことは、もう変えられない事実。
そのことを指摘されると、人間はどうしようもない。言い訳しても空しく響くだけ。だから腹が立つ。「そんなこと知っていたよ!」と、うっすら覚えていた嫌な記憶がよみがえる瞬間だ。

指摘された者は、時間が経ってから、なぜそのとき言ってくれなかったのか?と開き直るかもしれない。
その答えは「そのときも言っていた」あるいは「そのときはわかってくれなかったと思った」だ。それもまた事実だけに、頭には血が昇る一方だ。

だから、他人に正論をぶつけてはいけない。どうしても言いたいときは、過去の話を絡めてはいけない。どうせ議論するなら未来の話をしよう。

「これからはこうしたい」「今度はそうしよう」そういった建設的な話をいっぱいしよう。
もし相手が、自分の未来像の中にあなたという存在を含んでいなかったらどうするのか?そのときは、すぐに引き下がろう。謝ろう。その方が無難である。

もし1回でも、嫌われる一言を言ってしまった場合、相手の心は傷つき、二度とあなたに心を開いてくれなくなるかもしれない。
それでは、あなたが可哀想である。あなたは永遠に満たされない。コミュニケーションは一生成立しない。正しいことをしていると思ってはいけない。

何の見返りも期待せず、自分を犠牲にして、相手に正論をぶつけ続けるか?正しいと思った行為を続けるつもりか?
そのうち、満たされない欲望に己のコントロールを奪われてしまったあなたは、気づいたときにはストーカーとして逮捕されているかもしれない。

意見が通じない相手に無理を通すのはやめよう。正論は、胸の中にしまっておこう。
どうしても相手に伝えないことがあるとき、そのときは、そのせいで自分と相手との関係が途切れてしまうことを決心しなくてはならない。

我慢をすれば必ずストレスが溜まる。なぜ自分はこんなストレスを抱え込まないといけないのか悩むかもしれない。それは誰もが同情すべきことだ。
でも、だからとそれを相手にぶちまけてはならない。ストレスを感じるのは、あなたも、相手も、同じなのだ。

自分の一言が相手の為になると、そう勝手に思い上がってはならない。そういうあなたは、相手にとってもっともストレッサーな存在なのだから。


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2007年11月19日(月曜日)

「女の子を容姿で差別しちゃいけませんか?」の回答が辛辣で不愉快な件

カテゴリー: - etupirka @ 22時39分48秒

女の子を容姿で差別しちゃいけませんか?

質問:

「あのバトンリーダーは、あまりにも容姿に問題がある。何とか頼むよ。」と校長先生は言うので、(どうしようかしら?)と彼女は迷っているそうです。

彼女はこの校長先生の言うとおりにした方がよいのでしょうか?どう思いますか?

要約すると、先頭に立つバトン部のリーダーがブサイク過ぎて、ライバルの学校に見劣りしてしまい、観客はライバルの方に好感を持ってしまったいうエピソードがあったとのことだ。質問はその上で好調がバトン部の顧問に要請した内容。

今のところ、5つの回答がついているが、意外に冷静な話し合いが進められていて好感が持てる。「いけないに決まっているじゃないですか!!!!」と人の質問もよく読まずに感情に任せて書く人がいないのだ。

そのせいか、回答は私が想像していた以上に辛辣なものになっている。

バトンリーダーですが、見せる競技なんだから容姿は重要です。容姿に問題があるならリーダーになるべきではありません。

というもっともなものもあれば、次のような不愉快な回答もある。

そもそも、外見の美しさよりも、競技に励む姿に人々は感動するんです。
例えば、柔道のヤワラちゃん。
決して美人ではないけど、ひたむきに柔道に励む姿を見て、人々は「可愛い」と好感を持ちます。

この回答をした人と、これを支持した人(現在の回答の支持率:62%)はヤワラちゃんに訴えられて良いと思う。この例えば、バトンガールの問題以前に、ヤワラちゃんに対して失礼過ぎる。

そもそも、バトンガールやチアガールが、なぜ「ガール」なのか考えよう。なぜボーイではダメだった?

次に考えるのは衣装のことだ。この学校のことは知らないが、なぜ多くのバトンガールは露出の多い衣装を着ているのか?

バトンガールは服の展覧会をやっているわけではない。容姿の問題は、技術の問題よりも大きな問題なのだ。

与えられた選択肢は2つだ。綺麗ごとばっか言ってないで、お客さんが望むものを提供すること。もしくは、そんな卑しい見せ物を部活として存続させるのをやめることである。

そんな当たり前なことはさておき、

そのボーイフレンドは校長先生の教え子なので、自分が口をきいて彼女にもっと好感を持つように取り計らってくれると言うのです。

こんな下劣なことを平気で言動に出す奴は、教育者として失格だ。今すぐやめて頂きたい。こっちの方がよっぽど重大問題なのでは?


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