TOP  >  言葉、屁理屈  >  最高の屁理屈をあなたへ! : 2007年 12
あれ、打ち間違ってる?

打ち間違いだとわかる箇所は、間違っていること・本当のことの両方が伝わっているものだと思います。適宜読み替えて読んでください。間違いに気づかない人は、どうぞそのままお読みください。

文章の論旨への批判・意見・感想等は大歓迎します。Twitterもやってます。

はてなアンテナ登録 はてなブックマークに追加 はてなRSSに追加 Subscribe with livedoor Reader
ブクマについて:このサイトのURLには+が入っているため、ブラウザに表示されているURLは正常にはてブできません。+の入らないURLも用意されていますので、エントリ下のボタンをお使いください。アホなこと言ってごめんなさい。

2007年12月5日(水曜日)

タグクラウドが嫌いだから、ひっ、一言くらい言ってもいいでしょ///

カテゴリー: - etupirka @ 21時02分09秒

タグクラウドが大っ嫌い。はじめて見たときは「なんだこの新手のSEOスパムは!」と、今考えると笑ってしまうような感想を持ち、それがあるページは無条件でパスして見ないようにしていた。
そうこうしているうちに、気づけばメジャなーなサービスでは必ずこの「タグ」という概念が用いられている。テクノラティについてはもちろん知っていたけれど、調べれば、wordpressにもカテゴリを捨ててタグを導入するプラグインがつくられていた。それもかなり昔からだ。

今年の夏、ある自分のサイトではじめて「タグ」というのを導入した。忌々しい思いをしながらもスタイルシートに手を入れ、タグクラウドのスペースをとり、すべてのページにタグ付けをしていく。
そこはwikiだったので、更新のたびに頻繁にタグを付け直さなければならない。これは非常にめんどくさいけれど、でも、それさえ除けばなかなか便利なものだと関心している。それからタグのことをちょっと見直した。

タグクラウドを導入するメリットは、閲覧者と執筆者の両方にある。ここらへんの真面目な説明は他のサイトに譲るとして、私が気に入った(というか、自分が理解できた)点だけ、情報の共有よりも情報の整理・後の活用のしやすさに重きを置いたメモを残す。
「カテゴリ」は、「タグ」の種類と比較して、どうしても数が少なくなりがちである。そもそも、元から用意しているものを新しいエントリに適用していくのだから、自由度が非常に低い。

エントリが増え、カテゴリが増えていくと、カテゴリに階層が出来上がる。親カテゴリがあり、子カテゴリがあり、さらにその下にはまたカテゴリがある。
そうすると次第に執筆者の整理能力が問われるようになる。肥大化したカテゴリは閲覧者を迷子にする。

ブログやwikiなどは、最初に書きたいことがあってサイトを立ち上げているわけではないから、カテゴリで収納しきれるような統制のとれた内容ばかりがエントリされるわけではない。
カテゴリは長く続けるには無理があるのだ。このサイトみたいにふざけたカテゴリ名ばかりを用意しない限り、カテゴリが持つ収納能力は次第に鈍化していくのである。

一方で、タグは1つのエントリに対して気軽にいくつも適応することができる。見ている方も見ている方で、文章を読みながら読みながらタグをブクマにどんどん追加しながら読める。
タグはタグで、カテゴリとはまた違った種類の整理能力が必要だけれど、後から訂正をかけるのは、カテゴリのときより楽だと思う。また、自由度はカテゴリのときと比較にならないほど高い。

本の整理に喩えるなら、最初に大きな本棚を買って整理するのと、小さな棚を少しずつ買い足していくときの違いなのかもしれない。
また、後者の難しい部分は、本棚を買い足す人間が、同じサイズや色、デザインの棚を買い足すようにしなければ意味がない、というところにある。1人でもずれたことをしていると、全体の持つ有用性が薄れるのだ。

これは私が知っている中で最も致命的なタグの欠点だ。タグの有用性を守るためには、タグ付けには暗黙のルールが必要となる。
もし脈絡も捉えず自動でタグ付けを行う信じられない人間がいたら、もう最悪。すべてが台無しなのである。そもそもタグは個人の感覚で自由につけられるから良いのであって、大勢で使うには不向きであるという意味かもしれないが、個人で使う分にも、日本語の揺らぎを既存のタグに合わせ自動訂正するなど、形態素解析は必須だろう。それも出来るだけ高度で無ければ、人間の記憶に補助にはならない。

タグクラウドは、不揃いの大きさの文字が並ぶ(どうかしたら、それに色をつける奴までいる)不格好なものしかつくれないという酷い勘違いをしていたが、夏に手を入れたとき、そんなことはないことを知った。
私はタグの魅力にとりつかれていたが、それはタグがもつナビゲーションとしての機能を買っていたからだ。100のエントリを持つブログがあったとして、後からそれを全部見るやつなんていないのだ。見たいところだけをピンポイントで見られる、という点で、タグはナビゲーションとしても価値を持つことが出来る。それからは、タグを使っているけれど、クラウドは同じ文字の大きさで並べる、というシステムが好きになる。

しかし、なぜ多くの人があんな不格好なものを好んで導入しようとするのか。これだけは今でも理解できない。
タグのあるブログをみるたび、ここの管理人は「便利さをとる」ためにかっこ悪さを甘んじたのか。なんて男気に溢れているのだ!あんたは偉いぞ!と一人感情を高ぶらせていた時期があった。俺の涙を返してくれ、と思う。

タグクラウドが表すのは、そのサービスを編集している人、あるいは人たちの趣味や傾向、そしてサービスの趣旨だ。
もし釣り好きの奴がタグ付けをすれば、クラウドには釣具や魚の名前が並ぶだろう。他の人間がそこからわかる情報は、そいつが好きなルアーメーカーと、好きな魚くらいだろう。

十分な情報ではないか、と思うかもしれないが、実情と照らし合わせてみて欲しい。個人の趣味に興味があったり、その人の思想に触れたくてネットを覗いている奴なんてほとんどいない。閲覧者はコンテンツの内容に興味がある。執筆者がよほどの神あるいは友達、知人、マイミク、マイミクのマイミクでもない限り、コンテンツから人間に閲覧者の興味が移ることはない。
そう考える私からは、タグクラウドは一部のお調子者がクリスマスの時期に自分の家飾る、趣味の悪い電飾やサンタクロースの置物のように見える。そこには知りたくもない個人の趣味が全面に押し出されている。非常に押しつけがましく、価値も感じられず、ただ悪趣味なだけ。目にするたび望みもしないのにプライベートな行為を見せつけるときに似た嫌悪感を覚える。

イトミミズが釣りのエサとして最適である、という情報は有用であるが、そいつがイトミミズがどれほど大好きかどうかなんて、誰も知りたくはない。
Googleがタグクラウドに目を付け、各サイトのタグの数と内容を評価し検索結果をつくりだすアルゴリズムでも実装しない限り、タグクラウドにはあまり意味はないのだ。しかし、はじめて見たページに「イトミミズ」なんて文字が太字のゴシックで仰々しく書かれていたら、それは実に滑稽だろう。それくらいの価値は認めても良い。

上記は、よほど大勢の人間が利用しているサービスではその限りではない。
そんなサービスでタグ付けがどれほどの意味を持つか、という疑問は残るのは前述の本棚の例の通りである。自由度の問題だ。

このブログもカテゴリを何十もつくり、タグを何個もつけられるのだけれど、何度か新しいサービスにタグクラウドを導入するに連れ、タグとカテゴリの概念は非常に漸近していることに気づいた。
データベースのテーブル設計の差異はあれど、違うのは人間が持つ感覚だけで、やっていることはほぼ一緒だ。数ヶ月前まであそこまでタグを忌み嫌っていたことを、微笑ましく思える。

昨日、Firefox3のブックマークにもタグが使えないか考えてみた。Firefox2には大いに不満があったので、今までブックマークをまともに使わず、よく行くサイトのURLを覚えるようにしているだけだった。
ここに来てはじめてゆっくりブックマーク機能に触ってみると、キーワードというのがあり、これをタグのようにして使えるようだ。

でも5分も触らずに嫌になってしまった。ブラウザが搭載する機能のなのに、ブラウザからの操作性が悪い。これはいっそのこと捨てることにして、はじめてソーシャルブックマークに手を付ける。
少し前からこれまた違うサイトで他人向けにソーシャルブックマークを提供していたけれど、自分が本格的に利用しようと思ったのははじめてだ。色々なサービスがあるが、ツールバーのインストールされたブラウザからの操作性の高い、Googleブックマークを利用することにする。

このサービスはタグ付けが出来て、タグごとに検索が出来る。クラウドはあるけれど、それらはただ大人しくアルファベット順番に並んでいるだけ。私はこの手のサービスが好きだ。不満があるとしたら、ブックマークを追加するとき、必ずタグを入力するような前提でツールバーがつくられていないことだけだ。
他人に公開するオプションがないのも良い。そういうのがあると、ろくに見もしない記事を永遠とブックマークして歩く奴が生まれるからだ。もしかすると、Googleと私のタグの価値観は似ているのかもしれない(オチです)。


このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加

2007年12月1日(土曜日)

ある病気のサイトから学んだこと、WWWに公開する意義

カテゴリー: - etupirka @ 10時51分39秒

リンク禁止について目次)を読み、わざわざこんなに多くの労力と言葉を尽くされたsci98さんに、同じくリンクを当然の権利だと考える人間として感服する。
これに触発されたわけではないし、内容はまったく関係ないけれど、1年前から感じている疑問を思い出したので、それを書こう。

1年前初めて、ネットで病気についての記録を書き残している人たちに遭遇した。
誤解のないように書くが、私はこんな病気です!あの病気かもしれないし、こっちの病気の疑いもあります!と「病気の宝石箱やぁ〜」と自慢する人はあまり見かけない。

しかし、上記の考えは厳密には誤りである。それについては後述するが、大多数の人は、自分のために自分の記録を残している。人にわかって欲しいという気持ちが、それをチラシの裏に書かず、WWWに公開した動機となっている。
確かに、そういう用途ではブログは向いているかもしれない。当初は「なるほどな」と読み進めていたが、どうもマイナーな世界なせいか、後になって理解できない価値観が蔓延していることに気づく。

もっとも困ったのが、あるサイトの特定のページにリンクしたときだった。そのサイトは単に自身の経験を書きつづっただけではなく、人の役に立つように形式でまとめられたものだ。
だからリンクしたのだけれど、すぐにメールで物言いがついた。そのページを管理している人が「リンクするのはやめてくれ、不愉快だ」と言って来たのである。

そこの管理人とはそこそこの交流があった。でも、最初は何が言いたいのかよくわからなかった。
返事を送ってみると、「私は嫌だ。みんなも嫌だと思う。だからやめてくれ」という主張上が、「扱っている対象がデリケートだから」という理由で説明された。

同時は何度このメールを読み返しても、「嫌だって言ったら嫌なの!」という意味にしか読めなかった。 *1
でも、その人がWWWに情報を公開している理由が、そのときやっと理解できた。

何の対価もなく、医療機関よりも多くの情報を公開して凄いなぁ、と思うのは、当時も今も変わりはない。
変わったのは「なぜ公開しているのだろう?」という理由についての解釈だけ。当時は、1人でも多くの人に知名度の低い病気について知って欲しく、情報を公開しているのだと思っていた。でも実際は、何も考えていなかった。

なるほど、と苦笑し、続けてお叱りを受けたときも、「だからその年になって結婚出来ないんだ!」など揚げ足もとらず、謝った。
この問題は私が全面的に悪い。何か目的があって行動している人間は、何も考えずただ毎日を消化している人間よりも圧倒的に少ない。それについて失念していた自分は、自分の価値観を他人に押しつける嫌な人間に感じられたと思う。

その人のブログを読んでいると検索エンジン対策・最適化の文字が目につく。アクセスアップのため・・・と書かれているページに書かれてあるページにリンクがされている。「少しでも多くの人に」という言葉も目につく。
最初からこの「多くの人」についての解釈が違っていたのだ。「多くの人」というのは、不特定多数という意味ではなく、自分について好意的な人間が1人でも多く、という意味だったのだ。*2

ルーズベネディクトというアメリカ人は、60年前に書いた本の中で「西洋は罪の文化、日本は恥の文化だ」と説明した。本音と建前のせいで、言いたいことが何1つも言えない民族だ。とも書かれていたが、それは的外れな批判だ。
日本は現代社会でも相変わらず本音と建前の国だ。西洋人が「禁じられているからしない」という態度をとるに対して、「恥ずかしいからしない」というのも、なかなか見た目の美しい文化ではないか。

「人の嫌がるリンクは恥ずかしいことだからやってはいけない。」
「『多くの人のために・・・』が建前。『自己満足のために』が本音。」

話は変わる。最近になり、そのデリケートな分野に、数々のアフィリエイトサイトが出来はじめた。
もともとこの分野では、「デリケート」という言葉を持ち出した人が、アフィリエイト・アドセンスの先駆者だったと思う。 *3

私はとあるアフィリエイトサイトを、同じ分野の個人サイトの中でも特出して運営歴が長く、同じURLを維持し、多くのサイトからリンクされている老舗サイトで知った。
なぜリンクするのだろうか? リンクしたらどうなるかわかっているのだろうか? 実際に質問してみたが、わかってはくれなかった。

次のGoogleインデックス更新で、そのアフィリエイトサイトは検索結果のトップに表示されるようになった。私が想像していた通りの結果だ。
数ある優良なサイトを出し抜き、医者に診せるよりも大々的にアヤシイ健康食品を勧めるサイトが、より多くの人の目に触れるようになったのだ。

さて、2つの例では、リンクについて纏わる問題から、私が知っているものを挙げたものだ。
前者は、一部の人が望まないリンクを嫌う典型的な例(だと思う)。後者は、リンクによって派生する問題から、検索エンジンの検索表示順の規則について触れた。個人が勝手にリンクしてものを、これまた勝手に解析して、違うものに利用する例があるのだ。

前者について触れると、今でも私はLinks and Law: Mythsをバイブルにしており、無断リンクも当然賛成だし、デリケート(笑)なる例外はあるものの、無断でリンクを張るという行為を繰り返している。
無断リンク禁止派についての意見は色々あるけれど、あまり相手にしてはならないのこと、何とかそれを利用してやる方法くらいしか頭にない。

いまWWWに情報を公開している人の多くは、何かの理由や信念、意見、動機等があって公開しているわけではない。*4 見る方も見る方で、何も考えず気軽に見ている。いや、友達のブログを仕方なく字面だけ追い、適当なコメントを残すことで見たフリをしている、という人も多いだろう。つまり、良い意味でも悪い意味でもその程度だ。
難しいことは読まない/書かない。自分に対して都合の良い情報しか読みたくない/書きたくない、というのも、両者に共通している姿勢だと思う。

電車の中で食事や化粧、いちゃつくなどのプラベートな行為をする人間が散見される世の中だ。
公の場でプライベートでデリケートな話をする、そういったものを大勢が見られるところに公開するというのもその程度の感覚なのかもしれない。それを見せられて不愉快に感じる人は、見なければいいし、逆に自分が不愉快に感じる相手には見て欲しくも広めて欲しくもないのか。

気持ちだけはわかるが、そういう問題なのだろうか?

*1 時間が経った今、読み返すと「嫌っつってんのが理解できないの?」という解釈が出来るまでに成長した。
*2 賞賛は欲しい。批判は目にも耳にもしたくない。という考えの人は多いし、それで普通だと思う。真理を探究するために人生をやっているのだはないのだから、正論よりも、自分が納得出来る偏った意見に満足したいと願っているのだ。
*3 自らのデリケートな体験を削ってお小遣い稼ぎをしているのだから、それを批判をするつもりはない。むしろ立派な姿勢だと思う。そんなことは考えずにそれをしているとしたら、もっと幸せだと思う。
*4 なぜか私に対しては「なぜ公開しているのですか?」という質問がしばしばなされ、そのたびに閉口してしまう。なぜ生きているんですか?と聞かれなかったことに満足しなければならないのかもしれないが。


このエントリをはてなブックマークに追加このエントリをdel.icio.usに追加このエントリをLivedoor Clipに追加このエントリをPOOKMARK. Airlinesに追加このエントリをBuzzurl(バザール)に追加



15 queries. 0.066 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress

プロフィール
1940年11月29日、東京都葛飾区柴又に生まれ、16才で家出し、20年後に腹違いの妹が暮らす故郷に帰って来た寅さんの本名は寅次郎である。