パチンコ屋に行ってきました
パチンコ屋に行ってきた。最後に行ったのは9年前のことだ。
9年振りのパチンコ屋は、そのときよりも外装・内装がキレイで、掃除も良く行き届いている。若い女性の姿もチラホラ見かけ、(個人的にこの数字に価値があるとは思えないが)男女比は半々というところだ。
遊びに行ったわけではなく手持ちぶさた。人を待ちつつ、ぼんやり他人が打っている台を眺めていたが、驚くことに全機種のパネルに液晶が採用されている。釘も縁日のおもちゃみたいに甘く、バカでも入るような工夫がなされている。
台の出玉・大当たり情報はそれぞれの台にリアルタイムで表示され、店内の機械や携帯から検索が出来る。「貯玉」なるシステムまで導入されている(もっと昔からあったのかもしれないが)。
店内の騒音レベルは、私が最後に訪れたときより上がっているだろう。店のシステムが合理化される一方、機種の性能は飛躍しており、発光ダイオードが無駄に明るく、そして音はうるさい。昔と比較して良くなったのか悪くなったのか、判断がつかない。
訪れている面々は一様に殺伐とし、溌剌とした表情の者は誰一人としていない。全員が自らの意思で参加し、すすんでお金を払っているのに、楽しそうに遊んでいる(という動詞が適切なものかどうか判断し兼ねるが)人はいない。元気そうに笑顔を振りまいているのはホールを歩き回るバイト店員だけだ。
ギャンブルというのは喜び勇んで乗り込んでいくイメージがあるが、勝負中は私が思っているよりシビアなようだ。
今度このような店に来るのはまた10年先のことだ。せっかくの機会だから、後学に様子を見ようと思ってはいたが、店に足を踏み入れ、ちょっと様子を伺った時点で、パチンコ店に対する私の好奇心は一気に衰退してしまったようだ。
やはりもう来ることはないだろう、と確信しなるべく早く店から切り上げるが、実はその二時間後には、なかなか出てこない連れを呼びにもう一度入店することになる。
私はギャンブルが大嫌いだ。あれは人間のクズがするものだと思っている。
元来、私はギャンブル好きのする性格ではない。
ギャンブルに熱中し趣味とする人の大半は、はじめてや、その後数回目に来店したとき、ちょっとの投資で予想外に儲けてしまったときの快感がきっかけとなっているそうだ。
私の場合、最初あることに失敗すると、2度目に同じことに挑戦するのが非常に億劫になる。また逆に、二度、三度成功したのに、その後何度も失敗が重なると、しばらくは手をつけたくなくなる。そしてどちらの場合も、二度と手をつけなくても許されるのなら、無意識で二度と手を出さないようにする。
自分はちょろっと手をつけただけで、人よりも上手く出来てしまうことが多い人間だ。自分が苦手な対象に対して努力をして克服するという経験をせずこの年まで生きてきた。失敗することが大の嫌いだし、失敗する可能性があることにはなるべく手出しをしない。だから、私という人間にギャンブルは向いていない。
ギャンブルというのは負けるより勝つ確率が高い。当たり前だ、そうでなければ店が儲からない。
単純な確率の話をするとそうなるが、実際のところ人間には「勘」や「慣れ」、「学習」、「適応」などと呼ばれる能力がある。しかしながら、この能力はすべての人に公平に分配されていないのだ。
1つのホールに、高確率で負ける人と高確率で勝つ人の両者が存在している。勝ち続けている人の中にはそれを生業としている人がいるのかもしれない。では負け続けている人は?どうしたら負け続けられるのか?
常識で考えて負け続けられるはずがない。個人の持つ所得は無限ではない。金をドブに捨て、無い金を無理矢理捻出して、常識では考えられないレベルで負けている人間がいるはずだ。全体の何パーセントかは知らないが、その手の人間が店を経営を支えていると思って間違いない。
この仕組みは非常に単純明快だ。少なくとも年金よりはわかりやすい。金と人生をドブに捨てる人がいる一方で、一部の人間が雀の涙ほどの利益を得て満足する。店側は残りの金を搾取する。
マックでバイトをする時給よりも、ギャンブルで得られる時給の方が多い人は少数派だ。大半の人は普通に真面目に働いて利益を得る人よりも非効率な金銭を得方をしている。
金儲け自体を目的としてギャンブルをしていないのは明らかなのに、全員が金に対して異様に執着しているのだ。この矛盾の中に人間の醜さの本質がある。もっとも、彼らの一部はギャンブルで簡単に金が儲けられると本気で信じているのかもしれないが。
どこをどう踏み外したら、ギャンブルという快楽に神経を麻痺させてしまうような、鈍感な人間になってしまうのか。
ギャンブルの快楽は、麻薬のような強い精神依存を伴う快楽だ。もっと人間的で、もっと昔から知っている、もっと細やかで単純な楽しさだけで満足出来なくなってしまうということは、非常に愚かであり、その人物が昔よりも鈍感になった証拠だ。それが出来なくなった者を人間のクズと呼ぶに相応しく、そう呼んで差し障りないだろう。
ギャンブルが親子のコミュニケーションとなっている人の話をたまに聞く。
腐ったリンゴと同じ箱にあるリンゴは腐りやすくなるという例え話をよく聞くが、その例えを人間に当てはめなければいけない状況というのは、悲しいものである。







