節操なく泣く女
感動のドラマ・ドキュメンタリーを見ると必ず泣く女がいる。困ったものだ。
人は感動するとき、自分の心にぴたりとハマる何かを見つけ、時には涙を流す。
でも、「泣く女」は物語の中に自分だけの何かを感じとったわけではなく、ただ演出者が用意したシチュエーションに酔っているに過ぎない。
つまり、本当の意味で感動しているわけではないのだ。
嬉しいときは笑う、悲しいときは泣く、というのは自然の摂理だが、人間は年を取るにつれてそれを少しずつ覚える。
感動もまた例外ではなく、誰でも小さいときに大人のマネをして習得したのだ。
しかし「泣く女」は、実際に「心動かされる」という状況には遭遇することがなく、マネをして覚えたものを練習する機会に恵まれなかったのだ。
だから大人になってからも、ガキのときに覚えた猿まねを条件反射のようにし続けている。感動する、ということが何か、未だに知らないままに、生き続けている。
「嬉しい」「嬉しくない」は人間が最初に持って生まれた原始的な感情だ。
「泣く女」はそういった薄っぺらい感情が習得した通り使えるのを何度も確認出来ているため、「感動する」のような高度な感情についても、自分が同じように身につけていると勘違いを起こしている。
そうして間違いに気づかないままに間違いを堂々と人前で乱発した結果、「節操泣く女」に成り下がるのである。
こう考えると、とても気の毒な気分になる。
特に、その女の稚拙な感情に振り回されている周囲の人間たちが気の毒でならない。
何に不満を持ったのか知らないが公共の施設で泣き叫び我が子供。それを見て「泣けば済むと思ってるのか」と叱る親。状況が想像出来るだろうか。
実際、女(ただし一部)は泣けば何とか許されるような社会の仕組みがもうずっと前から出来上がっている。
「泣く」というのは本来の働きを超えた特別な意味を持った動作だ。公衆の面前で「泣く」ことが許されるのは(そしてその目的が認められるのは)子供と女に許された特権なのかもしれない。少なくとも子供はそれを無意識のうちに知っている。
だから、私は敢えて言おう。
「泣けば良いと思ったら大間違いだ。」




