頭を使わずオシャレになる方法
世の中、軽率になったものだ。
街を歩くと、男も女もみなゴテゴテした格好をしている。彼らが着ている服のほとんどがブランド品だ。
道行く人にテレビカメラを向け声をかけると「これはどこのですか?」という問いかけに、次から次へとブランドの名前が飛び出てくる。
猫も杓子もブランド品で身を飾る時代になったのだ。
今の基準でいう「おしゃれ」とは、どれだけブランドものを組み合わせているか、という意味である。「おしゃれの本質はブランドではない。センスだ」と主張する人がいるかもしれないが、それは理想・空想論だ。
実際のところ、現在の「おしゃれ」という評価の中に含まれる「センス」の度合いは1割程度だろう。残りの5割は流行で、4割はやはりブランド志向だ。
1割含まれている「センス」だって、どれほど独創的に自分を演出するか、という意味でのセンスではなく、違和感なくブランドを組み合わせられるか、という意味で問われる必要最低限のセンスなのだ。おしゃれになる手っ取り早い方法は、ブランドの店で店員に従うままマネキンを丸ごと購入すれば良いだけなのだ。
先ほどの例で言うなら、街行くおしゃれさんに「これはどこのですか?」と聞いたとき、「シマムラです」「近所のリサイクルショップで買いました。300円でした」「ユニクロのバーゲンでしか服は買いません」「ダイエーの衣料品コーナーです」と答える人がいるだろうか?
「そのバッグはどこのですか?」と聞かれ、「ヤフオクです」「パチンコの景品です」「中国のお土産です」と素直に答える人がどれほどいるだろうか。
たとえそんな人がいたとしても、その人たちのこと「おしゃれ」と呼ぶことはないだろう。やはり重要なのは「ブランド」なのだ。
1口にブランドといっても、様々な種類がある。
昔は「グッチ」「プラダ」「シャネル」「ナイキ」「アディダス」くらいしかなかったブランドは、今では多く人々がブランド志向という型にはまったため、逆に星の数ほどのブランドが点在せざるを得ない状況になっている。
逆に「ナイキ」や「アディダス」はファッションブランドとしての地位を失い、それよりもいつ誕生したかも知れない耳慣れないブランド名の方が優先されるようになっている。
最近では「古着」や「セレクトショップ」と呼ばれるブランドまで登場した。ブランドの定義が「メーカー」という枠組みを超え、単なる小売店や扱っている商品のジャンルにまで適応されるようになったのだ。
そういえば、一昔前には「この服、渋谷で買ったの」とさえ言えば、たとえどんなダサい服に対しても「カッコいい!」と無条件で思わなければいけない時代があった気がする。
それが現在では「この服は○○にあるセレクトショップで買いました(○○にはその人のファッション傾向を表す街の名前が入る)」という長ったらしい表現に置き換えられているのだ。
結局のところ、現在のファッション傾向は、昔から何1つとして進歩していない。
人々の多くは自分の個性を表現できるだけのファッションセンスも、度胸も持ち合わせておらず、それどころか他人に見せられるだけの個性を持っていない。
今も昔もファッションを「個性を演出する」という意味で使う人は皆無だ。本物のファッションセンスを身につけることが出来ない人々は、ファッションを単なる流行と捉えており、自らのファッションでさえも、メディアと被服業界が扇動する流行の型にさえ当てはまっていれば良いと考えている。
雑誌やテレビの裏には必ず金の力がある。被服業界の利益がある。
そういった見えない力を意識もせずに、見よう見まねでブランド品を組み合わせ身を着飾るだなんて、やってることは動物園の猿の猿マネと一緒のことだ。ハイハイをして褒められた子供を教育テレビで見て、自分も褒めて欲しくてハイハイの練習をするのと同じ行為だ。
他人が決めた「流行」に従うのは非常に楽な行為だ。金さえあればそれだけで「おしゃれ」にでも何にでもなれるのだ。いかにも現代的な考え方である。
しかし、この問題の本質は、ファッションを猿マネした者たちが、自分たちの考えが自分以外の他人にでも当てはめられると考えている点にある。
ここまで話して来た猿マネというのは、所詮は「自己満足」な行為でしかないはずなのに、己の「流行」の定義を自分とは価値観の違う他人に当てはめ、そんなくだらないもので他人の評価までをもしてしまうのは非常に愚かな行為である。
猿マネが完璧に出来ているから「おしゃれ」だと信じているだなんて、端から見れば非常に微笑ましい光景だが、猿マネレベルの人間同士が「あいつはおしゃれだ」「あいつはダサい」と評価し合っている光景というのは、非常に見苦しいものである。ましてや、猿マネをしていない人間に対してまで、猿マネをして当然のような言動をとるのは、片腹痛いにも程がある。
いつまでもピカソの絵をどれほど綺麗に模写出来たか競ってみたり、オリジナルの絵を描いている人に「あいつはバカだ」と、絵を見る目すら持ち合わせていない者が言う。
こんなくだらないことが当然としてまかり通る世の中は、なんと軽率なものに落ちぶれてしまったことか。
猿マネに必要とされるのは、本人のセンスではなく、金と時間だけだ(必要なら「プライドの低さ」を加えてやっても良い)。
そもそも、金の力で自分の価値観を決めてしまうのは、金の力で選挙の票を買うよりも、数億倍愚かな行為である。誰かがそれに気づかない限り、軽率な世の中が秩序を取り戻すことはないのだろう。




