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あれ、打ち間違ってる?

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2007年11月7日(水曜日)

私のボール

カテゴリー: - etupirka @ 04時20分16秒

見失ったボールを追いかけるな

僕が人生で学んだ経験の1つは、まさにこれだろう。「見失ったボールを追いかけるな」

私たちは1度ボールを見つけると、無意識にそれを追い続けようとする。ボールがなくなると悲しい。だからボールをなくさないようにする。

世の中には数え切れないほどのボールがある。ボールのほとんどは代替の効く代物だ。
私たちの多くは、そのボールが手にあるうちは、自分のボールはそれ1つしかない考えている。でも、一旦そのボールを失うと、器用にも次のボールを見つけて、いつのまにかまた自分の手中に収めていたりする。

ボールの良いところは、右にも左にも好きなところに転がっていけるところだ。
ボールの悪いところは、右にも左にも好きなところに転がっていけるところだ。

ボールとはつまり、私のことである。あなた自身もまた、ボールなのだ。

かつて、あるボールを追い続けたことがある。
そのボールは私にとって非常に珍しいものに見えた。今までに見たことがなかったボールだった。だから、自分の手の届くところで眺めたいと思った。
願いは思っていたよりも簡単に叶った。夢にまでみたそのボールは、私が思っていた以上にとても美しいものだった。最高だった。本当に、素晴らしかった。

それほど素晴らしいボールは、1度でも落としてしまうと、2度と私の元に戻ることはないだろう。
私たちは縁日の金魚すくいでそれを学習した。あのモナカのカップで金魚を掬おうとすると、子供ほど大きいものに目が映り、そして案の定失敗する。掬った、と思った瞬間は実は最も弱く、その次の瞬間に油断してしまい、金魚は逃げてしまう。1度逃がした金魚の捕まえるのは、最初に捕まえるときよりも難しい。
あの素晴らしいボールも、また、縁日の金魚と同じだった。

私が手にしたと思ったボールは、すぐに私の目の前から消えてしまった。
1つのボールにこだわり過ぎたのが良くなかったようだ。ボールは右に左に転がり、気づいた頃にはとっくに手の届かないものとなっていた。

私たちの多くは、ボールをなくしたとき、それはボールが悪かったのだと結論づけてしまう。
でも、それを私は潔しとしなかった。
ボールがなくなってことより、ボールを知ってしまったことそのものを後悔する人も多い。
それは私には卑怯なものに思えてならなかった。

私はボールを呪う代わりに、私自身を呪った。その選択肢を選んだ。

私は今でもあのときのボールを探し続けている。
そのボールはもう「私のボール」なんかではない。それは「私の」と限定することは出来ないという意味でもあるし、それと同時に、私自身が「私の」といった言い方をしたくないからでもある。
理由は簡単。なぜなら、私自身もやはりボールであるからだ。
ボールは、『ボール』として見ているとすべて同じように見える。でも、1つ1つをちゃんと見てやると、すべてが違うものだとわかるし、本当に代替可能なボールなんて1つも存在していないのだ。
「私の」と勝手に名札付けしてしまう行為は、そういったボールの独立性に対して非常に失礼である。それは犬が電信柱にマーキングをしているのと同じ行為だからだ。あるボールはあくまでもそのボールであり、それ以外ではないのだから、それ以上のものとして扱ったり、干渉しようとしてはいけないのだ。私のボールと言えるのは、あくまでも自分自身のことだけだ。

ボールを追い続けている時間の半分は、ボールがどこに転がるかを見ていた。ボールの転がる先を決め、誘導したこともあった。
残りの半分は、ボールが再び確認出来るようになるのを待っていたと思う。

最近までずっと見失っていたボールを、やっと見つける事が出来たときは、本当に嬉しかった。
1つ誇れることがあるとすれば、それは私が決してボールをやめなかったこと。世の中の多くのボールは、すぐにボールをやめようとしてしまう。
見失っていたボールを見つけたとき、その衝撃は私がなおボールを続けていた事実を私自身に知らせてくれた。私はボールなのだ。そう思い出した途端、その事実が私の心を強く揺さぶった。

昔のことを思い出す。自分はなぜ同じボールを追っているのだろうか。本当は、何度も違うボールを拾おうとした。でも、新しく見つけたボールに近づいてみるたび、私は絶望したと言っても良いと思う。そのたび、昔見つけたあの素晴らしいボールのことばかりを思い出してしまったのだから。
何度も追うのはやめようと思った。見失ったボールは追ってはいけない。でも、そんなこと最初からわかりきっていた。わかっていて、始めたことだったのだ。

実は最初のきっかけを忘れたらやめようと決めている。それは素直に「嬉しい」と思えたこと。その感覚が忘れられてしまったら、もうやめようと思っている。
でも、そう感じた瞬間の数々は、今はもう私というボールの隅々にしみこんでしまい、洗っても、こすっても、決して落とすことは出来ない。
その気持ちの一部は姿を変え、まったく違うものとして生き続けている。それはもう最初の純粋な形を失ってしまったとても複雑な形だが、そんなものは単なる見た目の問題だ。大切なのはもっと違うところにある。それを忘れてはいけない。だから。私はそれを簡単なものとして言葉に還元すようとはしなかった。説明を求めた人を心底不愉快にも思った。

私はボールだ。違うボールにぶつかっては向きを変え、行く当てもなく、確固たる確信も保証もなく、いくつく先を求め転がり続けるボールだ。
もうしばらく今のボールをやめるつもりはない。素直に「嬉しい」と思える間だけは、あのときの楽しい時間のことを忘れたくはない。


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プロフィール
1940年11月29日、東京都葛飾区柴又に生まれ、16才で家出し、20年後に腹違いの妹が暮らす故郷に帰って来た寅さんの本名は寅次郎である。