真夜中でも可能なSOS
「ブログのここが良いなぁ。」と思う部分を1つあげるとすれば、まず思いつくのが、ブログが書き手の避難所の役割を果たしている点だろう。
言葉で説明するの苦手だから、例を出そう。
blog.livedoor.jp/poison666/のキャッシュ
最後は池袋パルコから飛び降りて自殺をしたらしい。この人がそれまでの1年間生きながらえられた理由があるなら、その1つとしてこのブログの存在をあげても良いのではないか、と思う。
書く、という行為は自分の考えを整理するための最適の方法の1つと言える。書くことにより、自分の考えが整理され、問題がクリアになる。
だからブログは、何か不満があるときの八つ当たりの手段としてはなかなか適しているのだろう。携帯でもパソコンでも、どこからでも投稿できる。手帳や日記帳に書く行為との違いは、書いた後に人から(それもほとんどの場合は自分に対して肯定的な感情を持った友人などから)見てもらえ、言葉までかけてもらえるところだ。これがうまく機能している状況を至るところで見る事が出来る(個人的には「痛い応酬だ」くらいにしか思えないけど)。
こういった点から、ブログはチラシの裏として必要とされている機能をすべて備えていると言って良いだろう。嫌になったら消しても良いし、人にバレちゃまずいことを隠れて書くことも出来る。その気になれば別人になりすませて理想の自分の日々を書きつづることも可能だ。
さて、便利な道具の登場が、それ以外の何か不便な道具の存在意義を奪ってきたのは私たちの歴史の常である。たとえば、工業の発達によって生まれた大型機械やコンピュータは、私たちの暮らしを便利にする一方で多くの職人さんの仕事を奪って来ただろう。ブログもまたその歴史の例外ではなかった。
ブログによって失われたものがあるとしたら、それは従来の人間づきあいのあり方、と呼べるものだろうか。今までなら誰かに自分の話を聞いてもらうためには、時間を気にして相手に電話をかけたり、頼んで時間をとってみたり、手紙を書くといった方法しかなかった。それらは、メールとネットが当然と今となっては非常に古く感じられる手法だ。何より不便である。相手に会うにしても、携帯なしでどうやって約束を取り付ければ良いのかわからない人も多いのでは?私用で相手に電話するときだって、その前にメールで断る人がいるのが普通になってしまっているくらいなのだから。
私は、失われた文化について、それを惜しんだり、復興させようとは夢にも思わない。気になることがあるとすれば、それはブロガーが無意識にでもそれを自覚しているのか?ということだ。「今はこんな時代になってしまった。昔は良かった」と嘆く人がいる。でも、今と昔というのは、年表のどこかに線が1本引かれて別れている代物ではない。文化は時間の流れに任せて少しずつ変わる。その変化そのものよりも、何かが移り変わる様にみじんも気づかなかった鈍い神経の方がよっぽど問題なのでは?と言いたくなることがあるのだが・・・。
曲がりなりにブログのようなものを書いている私だが、「私のボール」を書き上げたとき、やっと書きたいことが書けたと思った。上から下まで1度も修正なしで書いたけど、これは自分としてはとても珍しい。やりたいことはすべてあの中で終わった。だからもうしばらくはああいうものを書くことは無いと思う。







