女はダメだ
中学2年の担任が女性だった。
その先生について印象が残っているのは、文化祭の企画会議で、実行委員でもない自分が会議に呼ばれたことと、先生が学校をたびたび休んだことの2つだ。
学校を休んだ日、教室には代わりの先生が来る。その先生から理由を知らされるわけだが、その理由は毎回決まって「子供が熱を出したから」というものだ。
次の日、先生は何食わぬかをでHRをはじめ、授業をして、給食を食べ、また授業をしてHRをする。
その間、自分が休んだ理由や自分の子供について話したことは一度もない。
これを見て、私は「これじゃだめだ」と思った。自分の担任は子供の用事で学校を休む。でも、他のクラスの担任は休まない。他のクラスの担任は男だった。
男は休まない。女は休む。これではいつまでたっても男女の教員が平等に扱われない。
私たちの世代の集まりでは、「女はダメだ」なんて口にすると、たちまち非難の目が向けられる。
学校では男女雇用機会均等法をはじめ、社会にある男女の不平等について教えられる。
高校の卒業式の前日、男女の身体能力について議論をした。そのとき、私の話に「それは男女差別じゃないか?」と切り返した男がいた。彼はスポーツの自己推薦で関西の某有名私大への入学が決まっていた。
彼は県内でも最も優秀なアスリートの1人だったが、市内で彼よりも好タイムで5000mを走った女が果たしていただろうか?50m自由形を彼よりも先泳ぎ切った女がいたのか?
差別してはいけない。社会の教科書にも、国語の教科書にもそう書いてあった。
そういう教育を受けたせいで、私たちはそういう先入観を持たされたのだ。先天的に生じた男女の肉体的な差異や社会的な立場の違いの問題についてどう対処すればいいのかは教えられずに。
でも、上の世代では、典型的な色眼鏡で男女差別問題を考えている人が大勢いる。私たちは私たちで、差別が「いけない」ということは教えられていたが、どう「いけない」のか、「いけない」ことをしたらどうなるのかは、教えてもらったことがない。
担任は、同僚の教員や私たちに対しての十分な説明を出来ていなかった。それ以前に、私たちにはいつまでも何も教えてくれなかった。
不当な男女差別を肯定するわけではない。だからこそ、先生には「説明」をして欲しかった。
欠けていたのは「理解してもらおう」という姿勢だ。その姿勢がない限り、いつまでも女は、自分の無能力を棚に上げ権利ばかりを主張するおこがましい存在だとしか認識されないのだ。
自分の子供が熱を出したら、当然有給をとって良いべきだ。
先生はそう考えていたのだと思うし、それはまた正しいかもしれない。
先生は1人の親としては評価されるべき存在だったが、自分以外の子供たちに差別の問題を教え説かなくてはならない立場の人物として失格だった。
隣のクラスの先生は、テストの採点に掛かりっきりで職員室で徹夜をしたりしていた。十分な準備をしていなかったから、新聞を被って寒さをしのいだ、という笑い話も聞いた。
大勢の子供たちは、自分には無関係な理由で、学校を休む先生より、その先生を信用した。生徒たちは、男女差別問題の本質を理解していなかったのだ。
生徒には、担任の言動は、生徒より自分の子供を大切にしているように映ったのかもしれない。それは、職業とその大切さに関する授業を何度もやった人の言動とは食い違って見えたからだ。
徹夜して仕事することは偉いことでも何でもない。冷静な国語教師はそう考えていたかもしれないし、それこそ学校が教育をしなけれらばならない真実だったのに、自分の生徒たちがその問題を誤解したまま3学期を修了したことを先生は知らない。
その年の春、先生は担任を引き継がず、市内への小学校への赴任していった。もう何年も毎年、小学校への転勤願いを出していたそうだ。念願が叶って嬉しい。先生はそう言って泣いていた。先生は私たちの学校から姿を消した。
「先生は私たちを見捨てた」
誰かがそう言った。







