私のプロフィール #3
私のことをオタクと思っている人がいるらしいが、それは違う。
たとえば私はドイツの戦車のプラモデルをいくつかつくり、ジオラマをつくる。その一方でフィクションの小説を読み、必要があれば自分のパソコンは自分で自作し、音楽を聴き、自らも楽器を演奏する。休みの日に三脚と小さな脚立を背負って写真を撮りに行くこともあれば、ラーメンをつくってみたり、簡単なプログラムやスクリプトを書いて遊ぶこともある。レゴには子供の頃から20万円は投資しただろうか。
私の趣味は偏りがなく、むしろ色々やり過ぎている方だと断言出来るのではないだろうか。冬にはこれにスキーが加わる。
さらに、オタクではない、と主張する最大の根拠は他にあるのだ。
それは、私がどれかの分野に特出した人間というわけでもなければ、そうなろうと努力をしたこともない、ということだ。
一例を挙げよう。私は平均的な同年代の日本人よりも英語が出来る方だと思う。ちょっとした長い文章であっても不自由なく読み書きが出来る。
でも、今までの人生の中で、必死に英語を勉強したという事は1度もない。例外は学校のテストの前日に必死で教科書を暗記したくらいだ。英語の読み書きは私にとって運良く相性が良かっただけのことであり、努力をして身につけたものではない。
その証拠に、同じ英語でも、聞く話す能力については一切持ち合わせていない。
私が自分の意思で英語を話したのは高校の授業で日本語の通じない教師に質問をしたのが最初で最後だ。それ以来使う機会に恵まれないため、上達するどころか昔覚えたはずの会話表現を忘れていく一方だ。残念ながら私には「英語オタク」の素養はない。
この話は、私が持っているほとんどの能力について言うことが出来る。私が趣味のために時間をかけて勉強をする必要がなかったのは非常に幸せなことだった。もし、私が人よりも傑出した知識や能力を私が身につけているとしても、知識のほとんどはGoogleで検索すればわかることばかりだろうし、能力(スキル)についても、ちょっとその気になって手出しをすれば、すぐに感覚で身につくものだろうから、たいしたものではない。何かのきっかけでちょっと目立っているだけのことなので、凄いことではないから、誤解してはならない。
たとえば1時間半もあれば、軽い長編ミステリの1つくらい読めてしまうが、これを人を早く読もうと努力したことは一度もない。*1 速読の本を買ったことはない。写真の本を買ったこともない。音楽の理論書や歴史の本は買ったことがあるけど、退屈ですぐに投げ出してしまった。こんなオタクがいたら、他のオタクに失礼だと思う。私は、オタクと呼ばれるのには値しない人生を送っている。
*1 この点に関して、むしろじっくり味わいながら読もうと考えている人なので、1冊を人よりもなるべく長く何日もかけて読んでしまう。短く読めるのが凄いと思っている人の考え方が理解できない。
今まで、たまたま相性が良かったものをちょっとずつ手出ししているだけだ。楽しいと思うから、どんどん手を加え続ける。他の人よりもちょっとだけ秀でたスキルが身につくのは、あくまでもその過程で起こっただけのことであり、目的ではない。それに、苦手なものを努力して習得しているわけではないので自慢したこともないし、他人様から「オタクだ、マニアックだ」と言われると、逆に「お前はこんな簡単なことも出来ないのか?」と尋ね返してしまいたくなる。実際、そうやって人から嫌われてしまったことがあるくらいだ。
でも、私はテレビを見ない。新聞も読まない。世の中には毎朝、毎晩のように新聞やテレビを見ている人がいる。私はこれらのどちらとも相性が悪いみたいだから、それを毎日飽きもせず見続けている人を素直に凄いと思っている。凄いと言えば、カラオケも凄い。*2 ここらへんは「お互い様」だと思っているけど、だからといって彼らを「テレビオタク」や「カラオケオタク」とは呼ばないし、無理してそういっても笑われるだけだろう。
*2 私は絶対音感・相対音感を持っているけど、カラオケだけはお断りだ。分厚い海外ミステリを黙って読まされるのが罰ゲームだと感じる人がいるように、他人の面前で、しかもあの狭い空間で何時間も歌を歌うだなんてよっぽど重い罰ゲームじゃないかと思う。
このように私ほどオタクとほど遠い人間は珍しいことはわかって頂けたと思うが、実は最近になり、そろそろオタクになった方が良いのではないか、と思っている自分がいたりする。
兼行は徒然草の第188段で以下の通りの言葉を残した。
若きほどは、諸事につけて、身を立て、多きなる道をも成じ、能をも付き、学問をせむと、行く末久しくあらますことども心にはかけながら、世をのどかに思ひてうち怠りつつ、まづ差し当たりたる目の前の事にのみ紛れて月日を送れば、事々なすこともなくして身は老ぬ。つひに物の上手のもならず、思ひしように身をも持たず、悔ゆれども取り返さるる齢ならねば、走りて坂を下る輪のごとくに衰へゆく。
つまり、色々なものに憧れを持ち、あれこれ手を出しているうちに年を取ってしまい、人生の短さに気づかぬまま、結局は何の憧れも達成出来ずに年をとってしまう、ということだ。
なるほど、私にぴったりな言葉だろう。
人生は長くて50年。50を過ぎれば、その後の人生はそれまでの残りかすを搾り取りながら消費していくものだというのが私の持論だ。私のいう「人生」が終わっても、趣味を続けることは出来るけれど、その頃になったら新しいことはもう出来ない。趣味人としての豊かな晩年を迎えたいのなら、50までにはその趣味の楽しみをある程度は知っておかなければならない。
ならば人生の半分は25年だろうか? いや、人によっては40そこそこで結婚や出産などをきっかけに、どんどん鈍くなって腐っていく人間もいる。自分も例外ではない。折り返し地点なんて、とっくに過ぎていると思った方が良い。いつ自分は年老いてしまうのかなんて、そのときが過ぎた後じゃなきゃわからないのだから。
若いうちは色々なことに打ち込んだ方が良いという人もいれば、1つのことに専念して、そこから多くのことを身につければ良いという人もいる。
私は今までの自分の人生を棚に上げつつも、後者の説に賛成だ。無難に生きるのなら、そうした方が良い。
しかし、へそ曲がりでかつ物臭な私は、問われるたびに逆の選択をしてきた。難しい選択なのか、簡単な選択なのか判断は難しいけれど、そろそろ1つずつの趣味に見切りをつけなければならない頃なのかもしれない。
私がオタクという特定分野のエキスパートとして才を成すのには、まだまだ道のりは長い。




