詩
詩は何を持って"詩"と定義されるのか。
大衆の誌に対する見解はおおよそ次のようなものだろう。
「とにかく難解」「読む気がしない」「ナルっぽい」「意味がわからない」
普段、他人に対して本音を言わず、話をしても何の脈絡もなくおもしろみもなく、自分中心に支離滅裂なことを言っては黙るような奴らは、詩に対して謝ったこのような偏見を抱いているようだ。無理もないと思う。
私が彼らを擁護する最大の理由は、私たちが詩というものを学んだ過程にある。幼稚園・保育園のとき、誕生日に両親から詩をプレゼントされた。おばあちゃんにち遊びに行ったとき詩を教わった。そんな素敵な思い出をつくってくれる親族がいたら素敵だが、子供からしてみたら良い迷惑だと思う。
おおかたの人は小学校に入り文字を学び、「こくご」の教科書の真ん中より後ろで詩を学んだだろう。さらに半分の児童はそれより前に詩を見知ってはいただろうが、そのほとんどは創作の経験はなく、さらに半分(全体の1/4)の生徒は詩が具体的にどのようなものなにかは理解しておらず、残りの生徒は単に詩を誤解している(その誤解は後述する理由により一生解かれることもなく、したがって真実となる。また、正しく理解していた生徒がいたとしても、やはり後述する同じ理由で間違った価値観を植え付けられ、やはり誤解したまま一生を終える)。
悪いのはやはり国語の授業だ。何度でも書くが、あれほど日本人に対して"日本語での表現"というものを誤解させるものはない。子供たちにとっての「こくご」の授業は、まさに百害あって一利なしだ。事実、多くの日本人は国語の授業のせいで文学から興味を失う。言葉の持つ幻想性やおもしろみ、表現の喜びは何一つ学ぶことが出来ない。また、国語の授業で学んだ者がいたら、その"喜び"は誤解である。あまりにも陳腐すぎるハナシだが。
国語の授業は万人に対して良い思い出を残していない。国語教師の独壇場というか、教師が思い上がって一人で浮かれている、国語教師とかいう名前の、他に働き口もないアホの独りよがり、勝手な自己満足にしか過ぎない。
こうやって多くの日本人は"国語教師"のマスターベーションを休むことなく9年間+3年間見せつけられ、国語がイヤになる。仕事以外でペンを持たなくなる。
そして国語の中でもっとも素敵なはずの詩を嫌い、避けるようになる(「こくご」の授業で無理矢理変な題目で書かせ、さらにそれを他の児童の前で発表させたりするからだ)。
少なくとも私は、そのような国語教師としか出会えなかった。もし国語の先生が辻仁誠や俵町だったらこの意見も変わっていたのかもしれないが。
未来の国語のセンセイに期待しよう。まぁ、自分の子供には"あいつらはわるいやつだ"と教えるけどね(真実だから)。







