添削作業の傲慢さ
添削と言えば、小学生のとき先生に作文の下書きを提出して、真っ赤になった下書きを清書する、というあの素晴らかった日々を思い出すのは私だけだろうか。
あのとき学校の先生がすごいと思ったことは一度もなかったが、しかし年をとった今、実際の添削行為は非常に高度な能力を要求するものであるとわかった。しかし同時に、今考えるとあのセンセたちが本当の意味で生徒の作文を添削できていたかどうかは疑問に残るところだ。
一口に添削といっても、実際の作業は次のようにつに分類することができる。1つは日本語の語法や作文用紙の使い方などを修正する、日本語に関するもの。そしてもう1つは論旨の一貫性や展開の仕方など内容に関するもの。作業に関わってより能力を要する”難しい作業”は後者である。
前述の通り、私の小学校では下書きから清書の過程に移る前に、先生による添削チェックが行われ、内容によっては下書きをやり直させられた。 また、下書きの下書き、と呼ばれる行程も存在しており、下書きに入るまえに簡単な構成などを紙に書かされた。
私はこの「下書きの下書き」という作業が非常に納得できなかったので、「下書きの下書き」用紙を白紙で提出し、論旨は口頭で説明するという荒技を得意としていた。実際、同級生たちが提出する「下書きの下書き」は拙いというか、意味不明なものばかりで、提出時は回収して後日返却、というスタイルではなく、出来たものから直接センセのもとへ原稿を持って行く、というスタイルをとっていたため、私の荒技はたいていにおいて通用したのだが、たまに時間の関係により急遽、後日返却スタイルにシフトしてしまったりして、何も書いてない白紙を片手にあたふたしたことなども今では良い思い出である(この「良い思い出である」という常套句の意味がいまいちわからなかったのでここで使ってみました)。
そんな私も年齢とともに成長したが、世間的に大人と呼ばれる今になっても支離滅裂な文章を書くことも、打ち間違い・書き間違いといった致命的な間違いを犯すことも、人間的にひねくれてることも、小学生の当時と根本的に変わっていない、別の言葉で言うと成長していないようだ、小学生から。どれぐらい成長していないか。それは次の文が説明している。
ところで今の数パラグラフはすべて閑話だったけど、お気づきの方はいらっしゃっただろうか。
続きます。







